純長編小説2。

□らすと。
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「遅おーいっ!」
 玄関の扉を開けるなり、美咲は叫ぶような声でそう言った。あれからなんだかんだと支度をして、久々の休みだったため、部屋の掃除もして、ついでに風呂とトイレの掃除もして、洗濯物も一気に洗って、干して、そんなことをしていたら結局夕方になってしまった。いや、頭ではそうは思ってなくても、美咲に会うのをためらって、わざと時間をかせいでいたのかもしれない。
「ごめんな。昨日も遅かったからちょっと寝すぎた。」
 俺がそう言って謝ると、美咲は小さな子供のように頬を膨らませてみせた。
「せっかくのお休みなのにい。いっぱいデートしたかったのにい。もう暗くなっちゃったじゃん。」
 俺の心がこんなにも揺れ動いているにも関わらず、美咲は何一つ変わりなく、五日前とまったく同じ空気感をたたえている。
「悪かったって。ほら、これ買ってきてやったから。」
 俺はここへくる前に寄ったケーキ屋の箱を美咲の目の前でちらつかせた。
「あ、ケーキ・・・」
 単純なやつだ。美咲の顔がケーキの箱を見た途端にほころぶ。
「しかもホールだよ。美咲の好きなチョコのやつ。」
 俺が言うと、美咲はたまらずに手を伸ばしてきた。俺はわざと箱を高く掲げ、美咲の手を避けた。
「許してくれる?」
 美咲は一瞬ムッとした顔になったが、ケーキ欲しさで素直に頷く。俺は優しく微笑んで、美咲にケーキを渡してやった。
「はい。何か作ってよ。おなかすいた。俺の誕生日、祝ってくれるんだろ?」
 そんなセリフと共に、怖いくらい自然に笑顔を作ってる俺がいた。
「うん、分かった。・・・あ、別にケーキにつられて許したわけじゃないからねっ!」
 ムキになって言う美咲が可愛いなと思う。
「はいはい。分かってる。」
 俺は優しい声で言って、美咲の頭をポンポンと撫でる。
 以前と何も変わらない。俺の心の中はこんなにも変わってしまっているというのに・・・。二人の会話も、表情も、しゃべり方も、何もかも、ユキと出会う前と何一つ変わりはない。一体俺はいつからこんなに芝居が上手くなったんだろう。いや、今思えば今までだってずっと、俺は美咲の恋人役を演じていただけなのかもしれない。美咲のアパートの部屋で、美咲が料理を作っている姿を眺めながら、俺はそんなことを思っていた。美咲は確かに可愛い。スタイルもいいし、顔立ちも整っているし、こんな風に料理もできる。少し我侭で自分勝手ではあるけれど、単純で素直で裏表がなくて、甘え上手で・・・。そんな彼女だからこそ、俺は美咲を彼女にしていた。美咲は可愛いと思う。でもただの「可愛い人」でしかないのかもしれない。今までならそれだけで十分だった。でも、ユキに出会ってしまってからは、美咲への想いがどんなに軽薄だったかに気づかされる。
「はあい。出来たよお。」
 美咲が料理の皿を持って俺が待つテーブルまでやってきた。
「わあ、うまそうじゃん。」
 俺が褒めると、美咲は誇らしげな笑顔を見せた。
「私が作ったんだもん。おいしくないわけないでしょ。」
「ちょっとは謙遜とかしろよ、可愛くないやつだな。」
「だってホントのことだもん。ほら、食べてみて。あーん。」
 美咲がそう言って揚げたてのエビフライを素手で持って差し出してきた。俺はそれを一口で頬張る。
「はふっ・・・ん、うまい。」
「でしょお?」
 美咲が嬉しそうに笑う。俺も思わずつられて笑った。食事中も笑顔が絶えなかった。他愛ない話に花を咲かせて、美咲の作った料理をひたすら食べて、俺は、相変わらず心にもないことを平気で口にして、美咲も相変わらずくるくると忙しく表情を変えて、そこに流れる空気は、ユキに出会う前とまったく同じ匂いがした。
 食後にはさっきのケーキを切って食べた。美咲があんまり幸せそうな顔をして食べるので、俺は嬉しくなって、わざと「太るぞ」と意地悪を言ってみたりして美咲に痛い平手を喰らった。きっと客観的に見たらごくありふれた恋人たちに映るのだろう。美咲と過ごす時間が、美咲と接する自分が、あまりにも自然すぎて拍子抜けしている俺がいた。ずっと美咲といれば、ユキのことなんてもう考えずに済むのかもしれない。いっそ、美咲とひとつ屋根の下にでも暮らしてしまえば、元の俺が戻ってくるかもしれない。そんなことすら思ってしまった。
「ねえ、高史?」
 すっかりおなかもいっぱいになって、少し眠たそうなとろんとした目で美咲が甘い声を出す。
「ん?どした?」
 俺がそっと髪を撫でてやると、美咲はゆっくりと俺にもたれかかってきた。
「・・・会いたかった・・・寂しかった・・・」
 そう言って俺の胸に顔を埋めてしがみついてくる美咲を、俺は包み込むように抱き寄せた。
「俺も。美咲のことばっか考えてた。」
 なんでそんな嘘が言えるんだろう。ここ数日、俺の頭の中にはユキしかいなかったくせに。
「愛してる?」
「当たり前だろ。」
「ホントに?」
「信じてないの?」
 俺が聞くと、美咲は必死で首を横に振る。辛かった。俺のことなんか全然信用してないと言われた方が、どれだけ楽か分からない。俺は美咲を愛してはいない。
「高史い・・・」
 美咲が甘い声でキスを求めてきた。俺は何のためらいもなく美咲のあごに手を添えた。顔を近付けようとして、金縛りにあったように動けなくなった。
−−−−−高史・・・高史・・・−−−−−
 美咲のものではない声が聞こえた。誰の声なのかは考えるまでもない。
−−−−−高史・・・どこ?・・・高史・・・−−−−−
 ユキが俺を呼んでる。ユキが俺を探してる。行かなければ・・・ユキの所に・・・行かなければ・・・
「高史?」
 今度は美咲の声が俺を呼んだ。しかし、もう俺の耳には入らない。ユキが、俺の中を支配し始める。俺は、無意識に美咲の体を引き離していた。
「え、ちょっ、高史?」
 俺は何の迷いもなく美咲のアパートを飛び出した。
−−−−−高史・・・高史・・・−−−−−
ユキが俺を呼び続けている。美咲が背後でヒステリックな声を上げて俺を引き止めようとしていたのを感じたが、構わずに走り出した。行くべき場所はひとつしかない。俺は三番出口に向かってひたすら走った。もう、ユキのことしか考えられない。夢の中で交わしたいくつもの会話や、抱きしめたときの温もりや、キスの味が、現実の記憶よりも鮮明に思い出される。
−−−−−高史・・・会いたいよ・・・高史・・・−−−−−
 ユキの声はだんだんと大きくなって俺の頭の中で響き続ける。確かに、ユキが俺を呼んでいる。幻聴なんかじゃないという確信があった。ユキがどこかで俺を呼んでいる。俺に会いたがっている。俺を求めてる・・・
 いつもの横断歩道が見えるところまで来た時には、俺はもうすっかり息切れしてしまっていた。しかし、そんなことまったく気にならないほどに、俺はユキのことしか頭になかった。
「ユキ・・・ユキーッ!」
 俺は人目も構わず叫び、走った。横断歩道を赤信号で駆け抜ける。激しいクラクションの音と、中年女性の怒鳴り声が聞こえたが、振り返りもせずに走り続けた。
「ユキーッ!!!」
 もう三番出口はすぐそこだ。俺はのどが潰れるんじゃないかというくらい大きな声で叫んだ。
「ユキーッ!!!ユキーッ!!!」
 通りかかる人たちが不振な目で俺を見た。しかし、そんなことに構ってなどいられない。
「ユキーッ!!!ユキーッ!!!」
「・・・・・・た・・・かし・・・」
 ちょうど三番出口に辿り着いた時、微かにだが、確かにユキの声が聞こえた。
「ユキ?」
 俺の中に雷に打たれたような衝撃が走り、俺は必死に辺りを見回した。
「ユキッ!・・・ユキーッ!!!」
「・・・高・・・史い・・・・・・」
 ユキがいる。近くにユキがいる。ユキが俺の名前を呼んでいる。高鳴る鼓動を押さえられずに、肩で息をしながら、俺は周りの景色の中にユキを探した。俺が通ってきたのとは別の横断歩道の真ん中辺りに、黒いワンピースの少女を見つける。間違いない。ユキだ。白い杖を不器用に操りながら、ゆっくり、ゆっくり、こちらへ向かっている。俺はもう、自分を抑えることなどとてもできなかった。全力で走り、ユキのもとへ向かう。
「ユキッ!!!」
 ユキはその声に立ち止まった。俺を探すように視線を泳がせる。俺は、ユキのいる横断歩道へ飛び出し、その勢いのまま、ユキを抱きすくめた。
 ユキだ・・・ユキだ・・・今、俺の腕の中にある温もりは、確かに、夢と何一つ変わりないユキだった。
「ユキ・・・ユキ・・・」
 細い体が折れてしまうんじゃないかというくらい、きつくユキを抱きしめながら、俺は何度もユキの名前を呼んだ。ユキは抵抗することもなく、ただじっと立ち尽くしている。
「・・・高史?」
 ユキが言った。今、確かにユキの口から俺の名前を聞いた。ユキが決して知るはずもない俺の名前を・・・
「・・・高史・・・なんでしょ?」
 ユキがゆっくりとした口調で言う。
「私、あなたの夢を見た。」
 俺の腕の中で、ユキの声が響く。ユキを抱きしめている。
「何度も見た。毎晩見た。あなたは、私にとても優しくしてくれた。」
 こんなことがあっていいのだろうか。いや、常識的に考えてあり得ない話だった。見ず知らずの二人が、同じ夢を見て、同じ夢の中で愛し合っていたなんて・・・
「私はユキって呼ばれてた。あなたのことは高史と呼んでた。」
 ユキの声が俺の心に直接降り注いでくる。
「あなたはいつも、私に色を教えてくれた。」
「ユキ・・・もういいよ。」
 俺はたまらず、ユキの言葉を遮る。
「そんなの、全部知ってる。」
 俺がそう言って愛おしげにユキのキレイな黒髪を撫でると、ユキは俺の背中に腕を回した。
「ユキ・・・愛してる。」
 昨夜、夢の中で言いそびれたセリフが自然と口をついて出てきた。ユキが何かを言おうとして口を開きかけた時だった。
 凄まじいほどの車のクラクションが、俺たちの耳をつんざいた。そこが横断歩道のど真ん中だということを思い出す。いつの間にか信号は赤に変わっていた。俺は、初めてユキに会ったあの日のように、ユキの手を引いて横断歩道の端まで連れて行こうとした。もうすぐ渡りきるという時、青信号を疑いもせず、思いきり乱暴に曲がってくる車に気付いた。暗闇で俺たちの姿はとても見えにくい。「危ないっ!」と思って俺はとっさにユキを抱き寄せた。
キキーッ!!!!!
とてつもなく大きなブレーキ音と共に、二人の姿が一瞬ヘッドライトに照らされる。痛いほどの眩しさに思わず目を瞑る。
 ドンッ!!!!!
嫌な音が暗闇に響く。人々の叫び声が聞こえる。俺はユキの名前を呼ぶ。
「・・・・・・ユキ・・・」
 そう口にした次の瞬間、俺の意識は飛んだ。最後に一瞬、ひらひらと宙に舞う黒いワンピースを見た気がした。

一人のサラリーマンが、終電の時間を気にしながら三番出口に駆け込んだ。

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