純長編小説2。

□いち。
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「ねえ、今度はいつ会えるの?」
「うーん、どうだろ。仕事が順調に行けば月曜にはたぶん。」
「月曜かあ。木、金、土、日、月・・・五日もある。」
 美咲は指折り数える仕草を見せた後で大袈裟なほどに肩を落とした。
「たったの五日で俺の気持ちが離れると思う?俺ってそんなにオマエに信用されてないんだ?」
 俺が俯いた美咲の顔を下から覗き込むと、美咲は慌ててフルフルと首を横に振った。
「違うよ!あたしが寂しいだけ。」
 美咲がそう言い終わるか終わらないうちに俺は美咲の唇に自分のものを重ねた。
「ほら、もう寂しくない。だろ?」
 ポカンとした表情を浮かべる美咲に、俺は余裕ぶって微笑んで見せる。
「すぐそうやってごまかすんだもんなあ。」
 美咲はそう言いつつも嬉しそうにしている。俺はそんな美咲の頬を両手で挟みじっと目を見つめる。
「オマエが寂しいとね、俺も寂しいの。俺が寂しいと仕事がはかどらないの。仕事がはかどらないとオマエに会いに来れない。分かるだろ?」
「・・・うん。高史はいつだってあたしのこと思ってくれてるもんね。うん、寂しくない。だからちゃんとお仕事頑張って必ず月曜日に会いに来てね。」
「ん、必ず。」
 俺はそう言って美咲の手を取り小指を絡ませた。
「じゃあな。」
「バイバイ。」
 満面の笑みで美咲は俺に手を振った。俺は駆け足でアパートの階段を降り、下からもう一度美咲に手を振り、家路を急いだ。
 
 美咲と付き合い出してから二ヶ月。お互いに遠慮は抜けていたけれど、まだ冷めきることもなく、今の所ケンカもなく、ちょうどいい感じの時期だ。俺はああいう裏表のない、少し我が侭で、でも単純な、よく笑いよく怒る女が嫌いじゃない。友達に紹介すると必ずと言っていいほど「俺の苦手なタイプ」だとか「オマエ大変そうだな」とか「疲れないか?」とか言われるが、俺にしてみれば美咲のような女ほど扱いやすい。確かに、一日電話やメールをしないだけでも「私のこと愛してないの?」などと言って拗ねるし、約束が仕事でドタキャンになった時なんか「女ができたんでしょ?他の人と会うんでしょ?ねえそうなんでしょ?」と大泣きされたし、人に言わせればメンドーな女なのかもしれない。だが、彼女はなんだかんだ言って俺の言葉に弱い。「愛してる」の一言でたいがいのいざこざは収まってしまうのだ。目を見て、微笑んで、ついでにキスの一つでもしてやれば美咲のご機嫌は取れる。それが表面上は穏やかに笑って優しい彼女を演じているくせに、裏で友達に愚痴り、一人泣きをし、挙げ句「こんなのもうたくさんだわ」などと何の前触れもなくキレるような女なら、その方がよほどメンドーだ。俺はそう思う。
「あ。」
 横断歩道を渡ろうとした所で、ふと会社に忘れ物をしてきたことに気がついた。明日提出しなければならない書類がデスクに置きっぱなしだ。俺は横断歩道を渡るのをやめてその道を右に曲がる。この道を行けば会社へは数分で着く。会社に戻って書類を持って再び元の道を戻ろうか、とも思ったが、やめて別の道を進んだ。いつも使っている地下鉄の駅の三番出口へは少し遠回りになるかもしれないが、そっちの道からの方が月がよく見えた。俺は歩きながら腕時計を確認した。最終電車の発車まであと十分。
「ヤベッ。」
月なんか悠長に眺めている場合ではない。こんなことならはじめから少しでも近道をするべきだった。そんな後悔を噛み締めながら、俺は必死で走った。背中にじわっと汗が滲む。目の前の信号がいい具合に青になる。俺は走りながら横断歩道を渡る。ここまで来たら三番出口はもうすぐそこだ。時計を見る。あと三分。何とか間に合いそうだ。
・ ・・ドンッ!・・・ドサッ!
その時後ろで人が倒れるような音がした。俺は思わず立ち止まり振り返る。
「あーあ。ごめんねえー、悪気はないんだあ、俺も。許してくれるよねえ、え、お姉さん。はは、平気だよなあ、じゃあねー。」
 ベロベロに酔ったおっさんと、横断歩道の真ん中に座り込む女性が俺の目に飛び込んできた。どうやらおっさんがぶつかって転んでしまったらしい。少女と言っても違和感がないほどまだ若いその女性は、アスファルトに手をついて必死に何かを探していた。おっさんはフラフラと千鳥足でどこかへ行ってしまった。よく見ると、女性から数メートル離れた場所に白い棒が落ちている。俺はそれを見た瞬間に頭の中で思考が繋がった。信号が点滅する。もうすぐ赤になってしまう。俺は迷うことなく彼女の元へと走った。彼女の手首をつかみ、白い棒もつかみ、再び走る。何とか彼女を横断歩道の先まで連れてくることに成功し、信号が変わった途端、また車が走り出した。彼女は黒いワンピースを着てへたり込んでしまっていたから、少しでも遅れたらドライバーが彼女に気付かずひいてしまっていたかもしれない。
「あの、どなたか存じ上げませんが、まだそこにいらっしゃいますか?」
 俺の思った通りだった。彼女は誰もいない方向に向かってそう言った。彼女はおそらく目が見えていない。
「俺はここです。大丈夫ですか?お怪我は?」
 あまりに丁寧な彼女の話し方につられて、俺まで“お怪我”なんて言葉を使ってしまった。
「はい、大丈夫です。助けていただいて本当にありがとうございました。」
 彼女は俺の方に向き直って深々と頭を下げた。長い黒髪がとても美しかった。焦点が合っていない瞳は、どれだけ見つめていても俺を見てはくれなかったけれど、でもとても澄んだ瞳をしていた。そしてシンプルな黒いワンピースにふんわりと包まれた細く華奢な手足・・・
「あの、杖、落ちていませんでしたか?」
 彼女の問いかけにハッと我に帰る。
「ああ、これっスよね。ここにありますよ。どうぞ。」
 俺は自分の鼓動が高鳴っていることに気付きながら、彼女の手に杖を握らせてあげた。その指先に触れた瞬間、あまりの細さに驚く。
「何から何まですみません。まだ慣れなくて。ご迷惑をおかけしました。あの、何かお礼を・・・」
「もう行きます。終電に間に合わないので。じゃあ。」
 これ以上彼女の傍に居てはいけない気がした。何だか妙に体が熱い。
「え、あ、ちょっと・・・」
 そう言って呼び止めようとする彼女の声を後ろに聞きながら、俺はがむしゃらに走った。終電を逃しそうだったのもあるが、それだけじゃなかった。あの杖を彼女に手渡す時に指が触れ合ったあの一瞬、終電を逃そうが何だろうがこのまま彼女の傍にいたいと、そう感じてしまった自分を吹っ切りたくて俺は走った。あの衝動は何なんだろう。危機一髪の所で俺は最終電車に飛び乗った。頭の中でずっとあの黒いワンピースの彼女の姿がぐるぐると渦巻いていた。そう、確かにあの時、俺は彼女の弱々しい肩を、抱きしめたいと思ってしまったんだ・・・

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