ことのせ

□十話
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ぱっくりと緑が割れた空を見上げれば、そこには思わず溜息をついてしまうような美しい満月が浮かんでいた。ほんのりと妖艶ささえ孕む月光は山腹にある滝壺にも注がれ、激しく打ち付ける滝の水と静かな月の光りが合わさり、辺りは幻想的な雰囲気に包まれていた。

だが、そんな月夜も人に愛でられなければただの月。もしこの場に居合わせた者達が風流を好む人間であったなら、親しき者と共に月見酒、なんて粋な場面があったかもしれない。しかし月としては張り合いがない事に、今この場に立ち会っている唯一の人間は、凡そ情緒や風流と言った言葉には縁遠い集団であった。


「焦らすねぇ」


暗闇で息を潜める集団の一人、月光の届いている範囲から一番近い所に隠れていた若い男が、長い沈黙に痺れを切らし、やや離れた所に隠れている仲間を仰いだ。疑惑の篭った視線を感じ、木の上で寝転がっていた人物が、ほんの少しだけ身を乗り出す。下にいる若い男とは十も離れていそうな、まだ年端もいかない少年だった。


「ちっ、堪え性なさすぎっしょ」


ぼやく少年の真下には、月光を受けて光り輝く細い川があった。少年が水面を覗くと、水底に潜んでいた大きな影から二つの赤い点が浮かび上がり、少年が左右に手を振ると、影もまた同じように揺らぎ始めた。


「悪いがもう一回探ってもらうぜぇ。気取られないよう気ぃつけな」

「阿僧祇」


少年のいる木の更に後ろ、岩と岩に挟まれた所から、低い女の声が上がった。その口ぶりに探る必要性がなくなった事を悟り、少年は影と交信していた手を止める。すると、同時に揺れ続けていた影の形も水の中に溶けて消え、川はまた元の色を取り戻していた。


「ったく、待たせてくれたぜ」



女の見据える先を見つめ、男は普段から緩みっぱなしの口元を更に高く吊り上げた。辺りは再び滝の打ち付ける音のみになり、三人の気配は極度な値にまで薄くなる。暫しの間が空き、三人が見据える対岸から草を踏み分ける足音が混じり始めた。まだ音は微かに聞こえる程度だが、ゆっくりとした足取りで確実にこちらへ近付いてきている。女は先を睨む目を絞り、闇の中の目標の姿を探した。


「………」


足音は更に三人の潜んでいる川辺へとやってくる。どうやら音の主は足を負傷しているらしく、歩き方に独特な特徴が出ていた。案の定、水を求めて月光の下にやってきたその馬は右の前足を擡げており、体にも無数の傷があった。それは何れも足の怪我と比べれば大したものではなかったが、疲れきったその表情を見れば、ここに至るまでの苦悩は容易に窺い知れる。


「………くひっ」


直ぐ近くに己を狙っている敵がいるとも知らず、無防備に水を飲み始めた馬を見て、男が小さく吹き漏らした。おい、ふざけるな。と、もしこの場が普通に喋りかけてもよい状況であったなら、他二人の内からそのような言葉が飛んでいた事だろう。しかし今は叶わぬ為、言葉の代わりに冷やかな視線が一挙に男へ降り注ぐ。だが、そうやって男を非難するものの、女も子供も自身の目が随分と生温くなっている事は承知していた。


『―――………っ!?』


突然、不意をつかれた馬の目の前で、爆発が起こったかのような水柱が立った。水柱の陰に潜んでいた者の気配を察知し、馬は手負いながらも敏捷な身のこなしで再び暗闇の中へと逃げて行く。


「行け!」


空かさず指示を飛ばした阿僧祇の一言で、水中に紛れていた影が陸上に姿を現した。果してこれは生きていると言えるのか、甚だ疑わしいただの泥の塊が、地を這って逃げる馬を追撃する。その勢いは恰も土石流の如く苛烈であり、山の土や石やその他を巻き込み肥大しながら、泥は徐々に獲物の背後へ迫っていった。
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