小説
□ねぇ、先輩。
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スタイルがどうとか、美人だとか、そんな事はどうだって良かった。
まるで人魚のように水の中を自在に泳ぎ回る貴女の姿に、僕は惹かれたんです。
ねぇ、先輩。
「先輩」
「ん?」
「自分を辞めたいって思う事、あります?」
僕の唐突な質問に先輩は吹き出し、それから真剣な僕の顔を見て笑いを収めた。
何かを訊こうとも言おうともせず、ただ黙って僕を見つめる。
「……あるよ。何度も」
そう言って先輩はプールサイドに腰を下ろした。僕もそれに倣って腰を下ろす。
プールに浸した足がひやりとした冷たさと涼しさに癒される。
「ひどい事やきつい事言っちゃった時、何となく全てが嫌になった時、自分を辞めたいなって思うよ」
自分の太股かバタつかせる足かを見つめながら、先輩は言った。それから僕の顔を覗き込んで来る。
僕は、眩しすぎる先輩を直視出来ずに顔を逸らした。
「何か、あったの?」
小鳥がさえずるような高く優しい声で先輩は尋ねて来た。
僕は素直に答えられず、口をつぐむ。
理由を言うのが恥ずかしかった。男として、情けないような気がしてならない。
だって先輩は、僕よりずっとずっと凄いから。雲の上にいるような人だから。
タイムが伸びないんです、なんて素直に言えなかった。
そうやってもじもじしていると、先輩がいきなり背中をバシンッと叩いて来た。水で濡れている背中には地味に痛い。
背中を擦りながら顔を上げると、夕陽に染まった先輩の顔が目に映った。
聖母マリアのような儚げに優しいその表情は、荒くれ立った心をも穏やかにする。
「話したくなったら話してよ。いつでも聞くから」
「先輩……」
「何を思い悩んでいるのか知らないけど、私は好きだよ。君のクロール」
──先輩はそう言い残し、更衣室の方へ向かって歩き去ってしまった。僕は一人残される。
“私は好きだよ。君のクロール”
聞き間違えではないかと疑いたくなるほどの奇跡のような言葉に、僕はガッツポーズを決めた。
さっきまでうじうじ悩んでいた心は嘘のように晴れている。
ゲンキンだよなぁ、なんて思いながらも、にやけ顔が収まらない。
「うっし!絶対タイムを伸ばす!!」
僕は自分自身に強く誓う。
次に自己新記録を出せたら、その時は……。
この想いを、伝えよう。
fin.
≫あとがき。