家宝(頂き物文)

□白雪姫
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二〇〇九年九月二十七日。時刻は影時間を過ぎた午前零時十八分。探索のなかった今日の廊下は薄暗い。物音も聞こえないから、皆就寝しているのであろう。

その中を人影が歩いてくる。背は高く、眼光は鋭い。やや痛んだ茶色っぽい髪は長めだが、そこに女性的な雰囲気はなく、どちらかと言えば野生の狼を思わせた。だが、その手には、似つかわしくないものが乗せられていた。青い縁取りの硝子の器。中にはすり下ろした林檎と銀のスプーンが入っている。しかしそれは、彼が自分で食べる為に用意したのではなかった。

ドアをひとつ通り過ぎ、奥の部屋へと向かう。と、その時、暗闇の中で影が動いた。

「荒垣先輩、真田先輩の様子は……?」

問いかける声は柔らかいが、沈んだ響きを帯びている。是非もない。昨夜、明彦の顔に濃い疲労の影を認識しながら、広大なタルタロスの中を連れ回したのは彼なのだ。指揮を執る彼が帰還すると言わない限り、仲間達は探索を続ける義務がある。先日の発熱による遅れを、焦った面もあるだろう。

「もう少し、もう少しだけ先に……!」

その思いは、結果として判断を誤らせた。風邪に発展したのは明彦ひとりだが、少年を含む他の三人も未だ疲労が抜けていない。逸る心を抑えることの難しさと大切さ――少年はそのことを、身をもって知ったのだった。

絹糸のような夜色の髪の合間から覗く瞳は、深い後悔を滲ませている。学校から帰った後で、明彦の体温が上昇したからだ。明日は日曜日で学校がない。それが緊張を解いたのかも知れなかった。

普段の活力溢れる姿を知っているだけに、明彦が寝込んでいるのを見ることは、あまりにも辛い。まして原因が自分にあるとなれば。

だが、真次郎は、他の仲間達と同じように、少年を責める意思を持たなかった。

「問題ねェ。今はちっと熱があるが、明日になりゃ下がんだろ。どいつもこいつも、心配し過ぎなんだよ。お前も、疲れが残ってんなら早く寝ろ」

ぶっきらぼうな言い方に優しさがくるまれている。少年はそれに気づいていたが、表情は暗いままだった。小さく息を吐くと、真次郎はわざとらしく横を向く。

「たまには寝込んだ方が静かでいいだろ。ったく、起きてりゃトレーニングだプロテインだって、うるさくてしょうがねェ」

その言葉に少年は忙しくまばたきし、それからやっと、この夜初めての笑顔を見せた。繊細な美貌がぐっと和らぎ、一段と優しい印象になる。真次郎は照れたような顔を暗闇に紛れ込ませ、少年の頭をポンと撫でて背を向けた。

「……アキも、お前の所為とは思ってねェ。気にすんな」

「あ……先輩」

袖を引かれて振り返ると、スポーツ飲料水のペットボトルが差し出された。

「この前、アイソトニック飲料は点滴代わりになる、って真田先輩が言ってたから……」

「アイソト、ニック?」

「おれもよくわからないんですけど、これに書いてあったから、風邪にいいのかなって……」

困った顔の少年から受け取って、窓から漏れる光に照らす。なる程、確かに「アイソトニック飲料」という文字が見えた。

尚、アイソトニックとは、体液と同じ浸透圧を持つ電解質のことである。……と言うと難しく聞こえるが、要するに吸収が良いから、必要な栄養素が素早く体内に取り込まれるのだ。

だがラベルにはそこまで書かれていなかったから、今ひとつ理解し損ねた真次郎は、曖昧な表情で「ああ」とだけ頷いた。

「じゃあ、おれはこれで。真田先輩のこと、よろしくお願いします」

柔らかな微笑で軽く頭を下げると、少年は自室へ引き下がった。それを見届けた真次郎も踵を返す。明彦の部屋の前に立ち、控えめにドアを叩こうとした、正にその時。内側からドアが開いた。

驚く真次郎の目に映るのは、闇夜に輝く銀灰色の頭髪だった。だが白磁の肌には汗が浮かび、焦点の定まらない灰色の目が体調の不良を訴えている。にも拘わらず、一体どこへ行こうというのか。尋ねようとして、その必要がないことを真次郎は悟る。明彦の手に握られたものが、無言の内に答えていたのだ。

「馬鹿野郎。熱があんのに、風呂に入る気か」

「……仕方ないだろ。汗で、ベタベタして気持ち悪い」

言い返す合間にも、苦しげな呼吸音が口から漏れる。汗の滲む顔は熱の為に紅潮し、体は今にも崩れそうな程である。

ふらつく体を片手で受け止め、無言でタオルを引ったくる。そしてそれを適当に放り投げた。

「ここでストップだ。大人しく寝ろ」

明彦は柳眉を寄せて何か呟いたようであったが、抵抗する気力のある筈がない。結局、自分で歩いた距離を、真次郎によって引き戻されたのだった。
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