Original.

□汝、死に損ないの幸福を愛せ
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昭和二十年八月一日。
それは終戦のわずか二週間前であるが、一人の著名な飛行隊長が死んだ。

その名は――――菅野直。

太平洋戦争末期、怒涛のような連合軍の進撃に一矢を報いるべく、最新鋭の戦闘機「紫電改」をもって編成された第三四三海軍航空隊―――通称「剣部隊」の三個戦闘機隊指揮官の一人で、その勇猛果敢な戦闘ぶりは日本海軍航空部内では知らぬ者とてない存在、いわばホープであった。
戦死した当時はまだ二十四歳に満たない海軍大尉であったが、その抜群の功により死後二階級特進して中佐に任じられた。
菅野の数々の武功や戦闘の模様については追々語る事にするが、全軍布告に際してつくられた文案によれば、次のような事に要約されるようだ。

(以下、省略―――――)



以上、碇義朗著書、「最後の撃墜王“プロローグ”」より、引用。




『…さて、この菅野直という戦闘機乗りについて、少しばかり話したが―――ここで彼がどんな人間だったか、少し話そう』




菅野が三四三空に転ずる前にフィリピン戦線で活躍していた頃、受けた敵機の銃弾が大腿部に止まり、摘出手術することになった。
ところが、手術に際して、彼は麻酔を拒んだ。
それではと麻酔なしで軍医が手術を始めたが、流石の菅野も耐えかねて一時中止してもらった。
そこで瞑目した菅野は腕を組み、腹に力を入れて精神統一したのち、再び手術を受け、以後は大腿の中の銃弾をえぐり出して最後に皮膚の縫合が終わるまでの間、一言も発せず、表情も変えなかったという。

これもフィリピンでの話。

菅野大尉が部下と共に内地から新しい零戦を空輸してフィリピンに戻って来た時、間違えて降りた飛行場の司令からそのことで叱責されたことがあった。
改めて自分たちの基地に向けて出発する際、列機と共に尻を指揮所に向けた菅野は、一斉にエンジン全開を命じたので、プロペラ後流が巻き起こすものすごい風で指揮所のテントが吹っ飛んでしまった。
それを見てにやりとした菅野は、怒り狂う基地司令を後にさっさと飛び立ってしまった。

その頃、フィリピンでは特攻作戦が開始され、明日をも知れぬ我が身の運命に搭乗員たちの心もすさみ、毎晩、酒を飲んで憂さを晴らしていた。
菅野の隊も同様で、ある晩、いつものように気勢をあげていた菅野たちのところへ、司令部の職員が「搭乗員宿舎がやかましくて、司令も副長も眠れないから静かにしろ」と苦情を言いに来た。
取り合わなかったところ、再三やってくるので腹を立てた菅野が、「明日の命も分からん搭乗員に何を言うか」と司令部に怒鳴りこんだ。
その勢いに恐れをなしたか、それ以後、何も言ってこなくなったという。

以上、同著書同作品より引用。


『とまぁ、菅野はヤンチャ坊主というか勇み肌の坊ちゃんのようなところがあり、周囲を手こずらせていたようだ。それでも、ただの体力バカという訳ではない』


元来、人間とは複雑なもので、その一面だけを捉えて「こういう人物だ」と断定するのは誤りだ。
まして菅野は、一番の成績で中学に入り、そして一番で出た男で、頭脳は極めて優秀だったのである。

以上、同著書同作品より引用。



『菅野は文学を愛し、石川啄木の文学を心から愛していた。性格もどちらかと言えば大人しく、「軟派」だったらしい。なんせ文芸家になって身を立てようとするくらいだった』


その菅野の気持ちが軍人志望に変わった経緯については、本文では詳らかにするけども、文芸家を志望するような繊細さと、二歳上の大人しかった兄巌が友達にいじめられているのを見ると「かたき討ちに行った」(妹和子談)という気の強さは、どう結び付くのだろうか。
そして文芸家志望の菅野と、軍人になってからのあの果敢な戦闘ぶりと奔放な行動との間の大きな落差を、どう解釈したらいいのだろう。
少なくとも、菅野がその言葉から想像されるような柔弱な「軟派」でなかったことだけは確かである。

以上、同著書同作品より引用。


『菅野の変貌ぶりは、中学の頃の文芸仲間だった友人を大きく驚かせた。「これがあの、菅野か」と』



しかし、本当に菅野は変わってしまったのだろうか。

「思いやりのある、やさしい兄貴だった」

今角田市に住み、菅野家を継いでいる末妹和子はそういっているが、優しい心の持ち主であったが故に、彼が戦争で自分の任務に忠実であろうとすればするほど、自らに背いて振る舞わなければならなかったのではあるまいか。

《違うんだよう……》

私には菅野の深い悲しみの声が聞こえてくるような気がしてならないのである。

以上、同著書同作品より引用。




『知って、いるだろうか』


知っているだろうか。
かつて、菅野の下で、最期まで菅野の最大の理解者であった一人の青年の事を。

日本軍の英雄と呼ばれ。
戦うためだけに生かされ。
人の血の中で呼吸することを強要された、たった一人の兵士を。


たった一つの約束すら国のために捧げた、哀れで愚かな兵士の話を。




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