s o n o t a

□ムジュラ
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「ほんとうにありがとう。君たちは、早くここから逃げてくれ」

邪悪な月は大地に迫り、もう間もなくこの街は終わりの日を迎えようとしていた。
地を震わせるほどに近づいた月は空を蓋い隠して目のそむけようがない。ここにいては助からないのは自明の理だった。

それでも、自分の心はかつてない程満ち足りていた。大事な約束を今、果たすことができたから。
まだあの月が遠い上空に留まっていた時分には、怒りと後悔で引き裂かれそうだったのが、嘘のようだった。

傍らに膝をつき佇むのは、最愛の人。証人の元、自分と彼女は夫婦となった。
その瞳を見つめると、彼女はふわりと穏やかに微笑んだ。一度だけ小さく頷いて、繋いだ手を握り返してくる。

愛していた。今までも、今この時も。
たとえこの街が消え、世界の終わりになったとしても、それは微塵も変わることはない。この先何が起きたとしても――あるいは、何もかもなくなってしまったとしても、もう怖くはない。迎えるべき時を、こうして共に迎えられたから。

私たちはもう、大丈夫です。彼女は結婚の証人となった人物に向かって、きっぱりとそう言った。

「あなたに会えてよかった。どうか、無事でいてください」

証人はじっと二人を見つめ返した。緑ボウシの子供と、一匹の妖精。それが二人の結婚を見届け、誓いのお面を受け取った証人だった。
何処からともなく現われかと思うと、彼女との約束を手助けしてくれた。婚礼のお面を取り戻し、こうして思いを伝える事ができたのは、彼らのおかげだ。

自分はもう、思い残す事などない。けれどこの小さな恩人を死なせるわけにはいかなかった。

「アラ。ここまでつき合わせといて、なに弱気なコト言ってるの?」

そう小生意気な台詞を投げかけたのは、妖精の方だった。口数少ない緑のボウシくんとは対照的に、彼女はよく喋る。

「言っとくけど、あんな月、落ちやしないわよ。ケッコンシキするんでしょ。さっさと準備しないと間に合わないんじゃないの?」

いたずらっぽい口調で、妖精は言いきった。言われた方の二人は、無言で顔を見合わせる。
あらかたの街人は、ここまで接近した月を見越してこの街から避難している。それはごく当然のことで、むしろあの恐ろしい塊が落ちないなどという事態は、考えられなかった。

けれども妖精は澄ました様子で、穏やかな風のようにそよそよ飛んでいる。傍らの小さな剣士も、動作には焦りや恐怖がかけらも見受けられない。彼は二人から受け取ったお面を大事そうにしまいこんだ。

「明日は、年に一度のカーニバル」

緑ボウシの子どもはそう口を開いた。めおとのお面はしまい込まれ、その手には今、別のお面が握られてる。にこっと笑いながら、それを自分の顔にかぶせてみせる。

そのお面の大きな、全てを見透かすかのような、一つ目。
不思議な子どもだった。まだほんの幼いくせに、身丈にあった剣を使い込む様は、素人目から見ても只者でないのが分かった。笑ったり驚いたりしてみせる仕草はごく普通の子どもなのに、随時妙な違和感を覚える。
こことは違う、別の世界からきた人。上手くいえないが、そんな表現が一番しっくりくる気がした。

ぱっ、と一つ目のお面が降ろされる。現われた素顔は、幼くも精悍に笑っている。
もし、お面が素顔を隠すためのものならば、この少年には全く必要ない。ふとそんな風に思った。お面など無くとも、何を考えてるのかまるでわからない。底知れない何かが、彼にはあった。

「またね」

短い言葉を残して、くるりと背をむける。剣とお面と妖精を引き連れて、小さな証人は部屋を横切って行った。手を取り佇む夫婦が見守る中、バタンと部屋のドアが閉められる。
彼は一体、どこから来たのだろう。これからどこへ行くのだろうか。

「不思議な子ね」
「ああ」

全くその通りだ、と頷いたが、自分の呪われた有様を見下ろす。

「ぼくも人の事を言えたもんじゃないな…」
「そうね、びっくり」
「すまない」
「ううん。懐かしいわ……本当に、本当に懐かしい…」

やわらかく大きな手が、自分の小さな手を包み込む。懐かしい、と繰り返しながら、彼女の瞳からひと粒のしずくが流れた。それを空いたほうの手で拭いて、そっと両手を合わせた。
もう言葉を交わすことなく、ただ祈るように寄り添った。


二人の知らない、巨大な歌声が響くまで。







おわり

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