OBR

□終盤戦
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近づいてくる背後の足音。そして、やよいの向こうに立つ細長いロッカー。

美香は瞬時に、自分の取るべき行動を理解した。普段は優柔不断で、何かを即決するのが苦手な美香の見せた、火事場の馬鹿力だった。

「逃げて!」

我知らずそう口走ったのは、頭の隅にうしろめたさがあったからかも知れない。美香はその事を自覚する前に、ロッカーに飛び込んだ。掃除用具入れだったようで、モップやバケツが体のあちこちに当たって痛い。

肺を病みそうな埃くささの中。ロッカーの入口を締め切った刹那、その次に起こるであろう事態を、美香は予測していた。

「堀川ぁぁッ!てめえええ」

かくして美香はその絶叫を聞いた。ロッカー越しに伝わる音声はくぐもっていたが、よく聞こえる。それもそうだろう。距離は目と鼻の先だ。

「ふざけんなよ、このクソ女!」

朝子のヒステリックな怒声は半分、別の悲鳴でかき消えた。怯えきったやよいの悲鳴だ。バタタッ、と足音が入り乱れる。何かがぶつけられるような、にぶい音もした。

「てめぇってめぇみたいなクズが…っ!いい度胸じゃん!?あたしを殺そうってか、あぁ!?」
「違う!いやぁ!違います、違いま―」

甲高い絶叫が、美香の耳を劈いた。美香は震えながら、ロッカーの奥に背中をぴったり押し付けた。狭すぎるせいで、殆ど身じろぎ程度にしか動けない。それでも、何とか離れたかった。薄いドア一枚を隔てた、「それ」から。

「いやあぁぁぁぁっ!!」

やよいの叫び声も、半狂乱なものになっていた。満ち満ちた恐怖が声を上ずらせている。

「待ってやめて!やめてくださいわたしっ!何もしてないっ…!」
「うるせぇんだよ、虫やろうが!」

ドカッという鈍い音。またもや悲鳴が上がって、美香は耳を塞いだ。

「あんたが―!」

ヒステリックな朝子の声は、それでも耳に入り込んでくる。やよいの泣き叫ぶ声も、同じく。

「あたしを―!」

悲鳴が響く。

「殺ろうなんざ―!」

再び悲鳴。

「百年はえーよ!」

また響く。

「死ねよウスノロがっ!!」

突如、うわあぁぁぁっ!という悲鳴が辺りに爆発した。やよいの絶叫はいまや、赤ん坊の鳴く声のようだった。続いて朝子も「この、てめぇ!」と短く叫ぶ。しかし、少し様子が変わっていた。

耳をふさいでいた手を放す。バタン、ガシャン、という激しい音が新たに鳴っていた。

「うわああぁぁぁぁっ!うああああーーーーーーっ!!」
「クソッ!こいつ、死ね!死ねよクソが!」

二人の絶叫と物音が続いた。朝子の声の調子はどこか焦っていて、やよいのは完全に豹変していた。
美香はがたがた震えながら、ただ一心に、二人が何処かへ去ってくれる事を祈った。自分の前からいなくなることだけを願った。

その時、朝子の悪態と怒鳴り声がふつりと止んだ。しばらくそのことに気づかなかった美香は、やがてしゃくり上げるような激しい息づかいを聞いた。その異様さに思わず伏せていた顔を上げ、ロッカーの闇を凝視する。
ドサッ、と何かが倒れる音。カツーン、と何かが床に落ちた音がした。

「ああ…う、ぅぅ……なに…こ…れ…」

朝子だった。搾り出したような、ガラガラになった声がそういった。美香が混乱しながらも息を殺していると、「あ…は、はは…」と別の声が笑い出した。

「い、み、見る…?ははッ!ねぇ、これ……ははは、はっはっははは!見てぇーっ!」

やよいの声だ。咳のような笑い声で意味のわからない事を喋っている。何故笑っているのだろう。いきなりの事に呆然としながら、美香は背筋が氷のようになっていくのを感じた。
あまりの恐怖に全身が痺れていく。その耳に、パタパタと一人分の足音が届いた。

「見て見て見えるホラ!毒針だってぇ!はっふふ、ホラ読んでよ尾方さぁぁぁぁん!!」

いやあああっとガラガラのだみ声が悲痛に叫んだ。位置からして、朝子は床に伏せっているのだとわかった。

「ホラほらホラぁ!『ひと刺しでも効きます。要注意!』だってこれー!ほらっ!ほら!ほら!ほらほらほらほらほらほら!!」

やよいが「ほら!」と叫ぶたびに、朝子が短い悲鳴を上げるのが聞こえる。美香は無意識に自分の手を噛んでいた。かちかちと微かに鳴っていた歯が、それで止んだ。

「あははははっ!すごい色ぉ!ひゃぁはははははっ!はははははははははは!!」

確かに美香は、ロッカーに隠れた。朝子がやよいを追いかければいいと思って。自分の身を守りたいがために。

「ははははーーーっ!すげぇすげぇすっげーブスじゃぁぁぁぁん!あーーっははははっははははははっ!!!」

けれど、こんな事は予想外だ。ましてや望んでなどいない。ただ助かりたかっただけだ。

―でも、私のせいだ。

朝子の声は、もうとっくに途絶えていた。甲高く耳障りな笑い声を聞きながら、美香は涙ぐんでいた。



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