《心月》
□一章 二・残照に赤く
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――ここは、どこだろう?
手水に立ち、部屋に戻ろうとして迷ったのだ。きょろきょろ辺りを見回しても、来た道とは違うように見える。
――大きなお屋敷。主は誰なのだろう。
彼女の身の回りの世話をしている初枝は、まるで監視の役目を仰せつかっているかのようにぴったりと張り付き、常に隣室に控えて手水に立つにもひとりで行動させなかったのだが、今日は昼過ぎから姿が見えない。
何とか自力で、と思ったのだが、元々方向感覚というものの働きが鈍いらしい。いつの間にか裏庭に面する縁廊下にたどり着いてしまったのだ。
――部屋に居ないのが分かれば、初枝さんに余計な心配をさせてしまう。
――ここは素直に助けを求めた方がいいのだろう。たぶん。
「すみません……」
小さく呼びかけるも、返事は無い。
「初枝さん、いらっしゃいますか」
「……」
意を決して声を張ると、裏庭から微かに人の声が聞こえる。
裏庭の片隅には如何にも急拵えな小屋が立っていて、其処に誰か居るようだ。
――小屋のお掃除か、探し物をしているのか。
――お手数をかけてしまうけれど、帰り道を尋ねてみよう。
空は橙色から藍色に変わり、辺りは暮色に包まれている。日が落ちるまで迷子でいる訳にもいかず、逡巡している暇は無い。
雪駄を履いて庭を横切り、小屋の窓の下に寄って中に呼び掛けた。
「どなたかいらっしゃいますか?すみません、道に迷ってしまって……」
「……て」
「初枝さん?」
掠れた声に窓を仰ぎ見ると、赤黒くまだらに染まった手が格子を掴んでいて、其処から頬に雫がぱたぱたと落ちて来た。
「え?」
緩い風が不意に向きを変えて、窓から漂う濃い血臭を彼女に吹き付ける。
「……か」
弱々しい声は初枝さんのものにひどく似ていて、悪夢のような想像を否応なしにかき立てた。
――この中で、一体何が……。
凄まじい臭いと異様な状況に竦んだ体をぎくしゃくと動かして、そこから離れた彼女の目に飛び込んだものは。
橙色の残照を受けて毒々しく色づいた格子を掴んだ手の持ち主と、その喉笛に喰らいついた白髪頭の男の姿だった。
「ひっ」
喉の空気が固まって、くぐもった短い悲鳴が零れる。
その声を聞き取った白髪頭の人物が、贄となった人を離したらしい。どさりと重い音がして、此方を見た。
ぎらぎら光る瞳は血のように赤く、獣というよりは話に聞いたことのある夜叉か魔物のよう。
はっきりと視線がかち合った瞬間、彼女は声の限りに悲鳴を上げた。
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