掌編

□路地裏の獣
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暗くて細い建物の隙間に妙に心引かれるのは、幼いころよくかくれんぼに使った家と家の間の垣根のせいだろうか。
それとも絶好の告白スポットとして絶大な人気を博した学校の校舎裏のせいか。

そうでなければ近年喫煙者に殊更冷たい風あたりから逃れるための、汚い路地裏のせいかもしれない。



―――雪の降り積もる神室町を寒さからコートの襟をしっかりと合わせ、身を縮めて歩いていた大吾はふと一服やりたくなって、ビルの間の薄暗い隙間にスルリと体を滑り込ませた。
いったいいつごろ回収されたのが最後なのか、溢れかえったゴミ箱から漂うすえた臭いに彼は思わず顔をしかめたが、着々と規制の進みつつあるこの国のごく限られた喫煙場所に文句は言えない。

いつのまにか随分軽くなってひしゃげた箱から大吾は煙草を一本取り出すと、口の端に加えたまま両手で自らの身体を軽く叩いてライターを探した。
火をつけた瞬間に無意識でポケットに、それもどことかぎらず適当に突っ込んでしまうので、いつもどこに入れたか忘れてしまうのだ。
やたらとジタバタする大吾が滑稽なのか、「天下の6代目が、煙草もスマートに喫えないのか」と周りにはからかわれているが、思い立ったところで一度ついてしまった癖は中々取れる物でもない。

今だってこの通り、またやっている。
幸い彼をヤジる隻眼の男はここにはいなかったが。

ようやくスラックスの尻ポケットからライターを見つけ出した大吾がため息を吐くと、白い吐息がモワリと煙の様に立ち上った。
それにしても寒い、とさっきから大吾は何か一動作を終える度に心の中で独り語ちている。
随分と使い込まれた大ぶりなジッポーはしかし、ガスの注入を怠ったためか酷く付きが悪く、2,3度眩しい火花を散らしてから、ようやく小さな目標物の先に火を灯した。

しんしんと牡丹雪の降り積もる街はその喧騒さえ、吸い込まれたようにどこまでも静かだ。

「――・・・・寒いわ」

肺にじんわりとしみる暖かい煙をゆっくりと吐いた時、大吾は一瞬自分の心の声すらこの静けさの中、音になってもれてしまったのかとさえ思った。
暗闇に慣れ始めた目でじっと路地裏の奥に目を凝らすと、ぼんやりとした煙草の明かりに青白い女の顔が浮かび上がる。

「一本くれない?」

彼女の声はか細く酷く擦れていた。
彼がそっと箱を差し出してやると女は長い袖の下からほんの少しだけ出した指先で音もなくそれを摘み取る。
そしてもう一度「寒い」と溜息のように呟いた。

良く見ればこの得体のしれない女が着ているのは、薄くて丈の短い黒のワンピースとペラペラのジャンパーだけだ。それでは寒さをしのぎ切れるわけがないだろう。
フードから零れる髪は絹糸のように細く絡まったブロンドだった。

咄嗟に上手い世間話などをすぐに思いつくほど饒舌でもない大吾は、彼女の傍にライターを近づける。

パチパチと音をたてながらジッポーが着火しきれない火花を上げる度に、彼女の色のない唇の横の紫色のアザと長い金色のまつ毛が淡く光り輝く。
その下の鋭く光る青い目は澄んだ湖の様に冷たく、まるで飼いならされていない獣のようだった。

6度目の着火に失敗した時、女はライターを些か乱暴に手の平で押し返して、大吾にグンと顔を寄せた。
思わず彼は怯えたように体を後ろにのけ反らせたが、ここは狭い路地。すぐ後ろは冷たい石の壁だ。
ピッタリと合わさった二人の煙草に火が移る。

「・・・・ありがとう」

それから女は力の入っていない大吾の手の中からジッポーをいともたやすく抜き取ると、それを彼の胸ポケットにスルリ落とし、背を向けて路地の奥へとまた引っ込んで行ってしまった。
真白な素足とかかとの履きつぶされた薄汚れたスニーカーがチラチラと揺れ、やがて見えなくなる。

大吾は背中に溶けた雪水がジワリと染み込んできていることに気づきながら、ライターの重みでずっしりと重い左胸を押さえたまま、しばらく身動きが取れないでいた。




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