掌編

□世界を売った男
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「あちゃー…やっぱり降ってきよったか」


天気予報では“今日一日晴天間違いなし”などと、妙な髪形の男が日本中に太陽マークを貼り付けていたと言うのに、

半刻前から機嫌を崩し始めた空はついに、みかじめの回収を終えたばかりの真島の上にも生暖かい雨の一滴をポツリと落とす。

こんなことなら手荷物になることを面倒くさがったりせず、鞄なりなんなり用意しておくべきだった。

といって、もし集金額が100万を超えると予め知っていたらなら、さすがの真島でも上着のポケットに突っ込めばいいなどとは思わなかったはずだから、そう言う意味でも今日の自分はツキに見放されているのだろう。


「“星占い”も、たいして当てにはならんなぁ」


仕方がないので、せめてもの慰めにと脱いだスーツの上着で粗雑な紙袋に入った札束をしっかりとくるんだ真島は、更に雨脚の強くなり始めた泰平通りを駆け抜ける足を速めた。

湿ったアスファルトの匂いが鼻をつく。



ところで彼の親父は、嶋野は、最近目をかけている新人組員に“金を回収してこい”と、確かに言ったが“早く帰れ”とは言わなかった。

(おそらくは百万やそこらなどあの大虎にとって、鼻紙にもならない金額だからに違いない。)

それなら金を濡らすより雨宿りする方がずっと賢明だと真島が気づいたのは、すでに全身くまなくずぶ濡れになった後のことだった。

もはや水を吸った上着もずっしりと重たくなっている。

カッターシャツの張り付いた背中の上では雨粒が跳ねる度、熱を持った皮膚がじんわりと痺れた。

背中一面から二の腕、さらに胸にかけてまで咲き乱れる桜。

わずらわしい痛みの原因となっているその刺青に、まだ色は入っていない。

完成すれば鋭い眼光を放つはずの般若の瞳も、今はぼんやりと虚空を見つめている。

と言うことはつまりあの地獄を今一度味合わなければならないのだ。

今でこそ眉をしかめる程度で済むようになったものの、彫って二、三日は腫れあがった皮膚が疼いて夜も眠れず、シャツ一枚着るのさえ億劫だったくらいである。

そんな真島を「大袈裟なやっちゃな」と言って冴島は笑ったが、あの男はおそらく己の刺青が兄弟分に比べていかに簡素か、ということを分かっていない。

甲斐甲斐しく腫れた背中に氷をあててくれる妹が誰にでもいるわけではない、ということも。


でなければ、冴島のタイヤの様な分厚い皮膚と真島の肉の薄い背中とを比べること自体、そもそも間違っているのだ。

シャッターの降りた飲み屋の狭い軒先で、雨が当たらないよう些か窮屈に体を縮込ませた真島がさして意味もなく盛大なため息を吐いて、濡れて原型を失いつつある小箱から煙草を取り出そうとした時だった。


通りの向こうからバシャバシャと水溜りを跳ね上げて、白いセーラー服姿の女が走ってくる。

雨除け代わりに学生鞄を頭の上に掲げていたが、ペタリと束になって額に張り付いた前髪を見る限り、あまり効果があったとは言えないようだ。

濃紺のスカートから垂直に伝い落ちる水滴が渇いたコンクリートの上に瞬く間に水たまりをつくる。


駆け込んだ先に先客が居たと気づいた女は一瞬驚いて、躊躇うように軒下の手前で足を止めたが

――それほど限られた空間なのである――真島が身体を端に寄せる素振りを見せると「すみません」と軽く頭を下げて隣に並んだ。

その素直さから推して、彼が“何者”なのか分からなかったのだろう。

しばし雨がアスファルトを強く叩く音だけが響く。


「――よく降るなあ」


その沈黙が気詰まりだったわけでもないが、半ば独り言のような真島の呟きに「そうですね」と相槌を打った女は、当たり前だが、うっかり訛りがなくなってしまったことを咎めることもなかった。

もっとも今、咎められたところで直すのは難しいだろうが。

というのも煩く教え込まれたこともあって、冴島や嶋野と会話する時はほとんど意識せずとも話せるようになりつつある関西弁は、思わぬところで唐突に取れて、その上一度とれるとなかなか元に戻せなくなるのだった。

所詮は“付け焼き刃”ということなのだろう。


「今朝の天気予報では“一日晴れ”って聞いたんですけど」

「俺も。やっぱり変な髪型の天気予報師なんか信じるもんじゃないな」

「それってあの、星占いやってるニュース番組ですか?」

「そうそう、見たことある?」

「あります、っていっても見るのは占いの方だけですけど。あの天気予報師カツラらしいですよ」

「かつらぁ?・・・頭まで嘘か」


いかにもうんざりした様な真島の言い方に女が「あはは」と声を上げて笑った。

その少しも飾るところのない、子供じみた笑い声に真島は己が今までこうして同じ年ごろの、それも堅気の女と何気ない会話を交わしたことなどなかった、と言うことに思い当たる。当然と言えば当然だ。

とはいえ今なら傍から見た自分も、彼女と同じく“普通の学生”に見えるかもしれない。


「ほんと、大人って嘘ばっかり」


冗談交じりの彼女の言葉に「そうだなぁ」と頷くと、増々知ったかぶった生意気なガキ、らしくなった気がして可笑しかった。

もしも日の届かない世界で生きることを選んでいなかったら、彼もまたこの様な日常を得ていたのだろうか。

女の子を笑わせようと苦心したり、テストや口うるさい大人にうんざりしたり。



時折、酷く羨ましいと思うこともあった。

例えば背中の燃えるような痛みに歯を食いしばって歩く真島の脇を、ふざけ合いながら黒い学生服の集団が通り過ぎる時。

公園のベンチに腰を掛けたセーラー服の二人組が、流行モノや、昨日見たテレビや、誰と誰が付き合ったなどと言う他愛もない話を、延々と飽くこともなく話し続けているのを洩れ聞いた時。

「じゃあ、またね」とそれぞれ家族の待つ温かい家庭へと帰ってゆく姿を、飲み屋街の暗い路地から眺めた時。


真島には彼らがどこか遠い、幸せな国の住人達に見える。自分には手に入らないからこそいっそう、憧れることがある。

――それは未練、なのだろうか。彼には分からない。もしそうだとすれば、いつか断ち切れるのかもしれないし、別にいつまでも引きずっていたってかまわなかった。


どちらにしろ、彼は後悔しているわけではない。

今まで何一つとして選択を強制されたことはなかった。全て自分で選んできた。

金と欲望と嘘にまみれたこの世界で生きることも。幸せな世界での安住を捨てることも。嶋野の“犬”と呼ばれることも。


それに、と真島は思う。

どの道彼はもう“普通”になんて生きて行かれないのだ。

一度強い相手と全身全霊でぶつかり合うことを覚えた身体が、ガキの生温い喧嘩などで満たされるはずがない。

渡世兄弟と組みの親と、ただ話の合う友人や教師との結びつきを比べられるはずもない。

化粧っ気の無い子供の様な彼女のことを“オンナ”と見ることもできない。

一度黒に染まったら、元の白には戻れない。


この雨宿りは所詮、ひと時の眩しい白昼夢だ。




「ようやく止んできたみたいですね」


軒先から身を乗り出した女につられて真島も空を見上げると、薄曇りの間から確かに太陽が顔を覗かせていた。


「通り雨だったんだな」

「もう少し教室に残ってたら濡れずに済んだのに・・・星占い最下位だったからなぁ」

「それなら俺、一位だったけど」

「えー?じゃあ、あの番組占いも嘘なんですねぇ」


自分で言って笑った女は一度、腿に張り付いたスカートを引っ張って「それじゃあ」と手を上げた。


「さよなら」


きちんと揃えられた五本の指が左右に揺れる。

その手の平が自分に向く日がくるなんて思ってもみなかった真島は、困ったように一度首筋を撫でて、ぎこちなく右手を上げた。


「―――“おおきに”」


耳慣れない言葉とその抑揚に「え?」と声を上げて足を止めた女が、すでに反対方向へと歩き始めていた男の背中を見て、息を呑む。


けれど、真島は振り返らなかった。

案の定、上着の下で水浸しになっている札束を嶋野にどう言い訳するか考えていた。



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