掌編

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体中だった包帯がみるみる取れて残る傷が左目と右足のギプスだけになる頃、私は病院を退院した。

自分でなんにもしなくていいのはとってもいいのだけれど、やっぱり一番落ち着くのは自分の部屋だ。

くたびれて真ん中の少しへこんでいるベッドに腰掛けて、コーヒーを啜っているとようやく日常に戻ったのだという気がした。

まあ、愛すべき平穏と言う程でもないけれど。

ところで、私は休め休めとそれこそ親の様に口煩い店長をいなしながら、相変わらず冴えないピアニストごっこも続けていたりする。

ピアノと言えば、驚いたことに退院するなり都内のとっても有名なバーから「いつから働けるのだろうか」と言った趣旨の、イタズラか夢かと思うような“不思議”な電話がかかってきたけれど、断ってしまった。

理由は自分でもよく分からないが、やっぱり生来の臆病なことが問題なのではないだろうか。

多分変わることが怖いから断ってしまったのだ、と思うことにしている。

事実前と同じことをしているとホッとするし。随分静かになってしまった今の職場に、さして大きな不満もないし。

強く腕を引っ張られて痛い思いをすることも、失敗をヤクザに見られて脅されることももちろんない。


唯一入院する前と変わってしまったことと言えば、あの擦り切れた“オズの魔法使い”という古いビデオを見なくなったことだろう。

今度の粗大ごみの日に、時代遅れのビデオデッキと共に捨ててしまおうかとさえ考えているくらいだ。

なによりあの世界に縋らなくてはいけない理由を失ってしまったのだと思う。

お望み通り私はこうして、温かいガラス窓の内側に座っているのだから。



南さんが去ってしまった何日か後になって、真島さんの死は新聞やニュースでもそれなりに大きく取り上げられた。ヤクザ同士の抗争だとか、私にはなんだかよく分からない世界の話だった。

ただこう毎日騒がれると、残酷にも“そんなはずない”と思い込んでいることさえできない。そのくせ味気ない記事では泣くこともできなかった。

この中に本物の『真島吾朗』を思わせる言葉なんか一つもない。

一つもないのだと思いたい。



――覚悟していたはずだった。

彼とこの先永遠に会うことがないと言うことは、それこそ私にとっては死んだものと同じようなものだ。

でも“そのようなもの”だからといって本当に死んでしまう事とは違う、全く違う。


新聞のなんだか写りの悪い彼の写真を見る度に私は、より一層鮮明に彼の声を、たどたどしく鍵盤を叩くほっそりとした手袋の指を、思い描くことが出来るのに、

それがもう、全部なくなってしまったのだと思うことは、相変わらず失礼な冗談を言うのだろうとか、駅前の新しいタコ焼き屋さんには行っただろうかとか、新作のゾンビ映画は気に入っただろうかとか。

そんなことを考えることさえ許されなくなってしまったということなのだ。

それがどんなに残酷なことか彼はわかっていただろうか。その気にさせて捨てるより、ミイラみたいに包帯でグルグル巻きの目にあうより、ずっとずっと。


彼がどこにもいないと思うことで心にぽっかりと空いてしまった穴を、今私は古いビデオの代わりに、真島さんとのほんの少しの思い出を何度も何度も擦り切れてしまうくらい思い返すことで埋めようとしている。

ハッキリ言って、場所や時間を選ばない分それはビデオなんかよりよっぽど性質が悪い。


その実私は身体と精神に重大な影響を与えるなどと言う理由で、朝目が覚めたらなにもかも全て忘れていないだろうか、と仄かに望んでもいた。


何一つ後悔はしていないけれど、

彼との思い出が、滲んでぼやけて、つかの間の夢だったのだと噛み砕くことでしか前には進めないのだ。

私は弱いから。それで安全。


 
  §


暦の上ではもうすぐ春だと言うのに、仕事を終えた私が部屋に帰るころ神室町には雪が降り始めていた。

ベッドに疲れ果てた体を投げ出して、タンブラーの中の冷めたコーヒーを啜りながら見るともなしにつけたテレビはよりによって『神室町 ヤクザの幽霊』なんて、見る気にもならない様なバカバカしい番組だ。

どうしてこんなに寒いのに幽霊なんだろう。

どうせだから眠たくなるまで借りてきたDVDでも見ていようかと腰を上げた時、カツリとベランダの窓に何かがぶつかったような音がした。

なんだろう、と首を傾げているとさっきよりも大きなものがガツンと飛んできてガラスが激しく揺れる。


「・・・ちょ、ちょっと!」


冗談じゃない、割れたらどうしてくれるんだろう!

慌てて冷たい風の吹きぬける窓の外に飛び出たけれど案の定アパートの下はボンヤリとした蛍光灯以外に何も見えない。

ただのイタズラだったのだろうか、と枕元の懐中電灯で真下を照らそうとした時、辺り一面がパッと昼間の様に明るくなって何事か分からぬまま私は反射的に両手で目を覆った。


「――なにちんたらしとんのや!!さっさと運ばんかい!!」


ガヤガヤとなにやらうるさい男の人達の声に混じって、なんだか聞き覚えのある声がする。

そんなはずはないと思いつつ目を焼かれそうな光に薄目のまま、眼下を見下ろして私は危うく握っていた懐中電灯を落っことしそうになった。

眩いライトの灯りの下、十数人の男たちにグランドピアノが担がれている。

ついに鳥目が行き過ぎて網膜かなんかが幻覚を映してるんじゃあないかと思ったけれど、なんど瞬きしても、目を擦っても、頬をつねっても。それはそこにあった。

夢なんかじゃあないのだ。


クシャクシャの服と頭で声も出せないまま、寒さも忘れて私が立ち尽くしていると、

細い路地にどっしりと構えられたピアノの前、一際眩しい光の中央にパリッとしたタキシード姿のすらりと背の高い男が颯爽と現れ、真白な手袋を胸にあてて恭しく頭を下げる。

『ええ恰好しいは嫌い』と言ったのは誰だったっけ。


整髪剤でかっちりと固められた髪の毛の下、にやりと笑う男の瞳は――・・・一つしかなかった。



“――どこか虹の向こう 空は青く 信じた夢は全て、現実になる”


深夜、比較的閑静な住宅街で響き渡るピアノの音に、人々が何事なのかと次々とベランダから顔を出す中、ぼんやりと突っ立ったままの私の背後、

くだらないテレビ番組の中で“ヤクザの幽霊”が元気いっぱいに金属バットを振り回している。



―――Over The Rainbow 


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