掌編

□07
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――元極道の男には寝たきりの妻があった。

その弱みを逆手に脅されて妻の命と手術費用を交換条件に、集めてきた“堂島大吾”という東城会現会長の情報を近江に売っていた。

それがどういうわけだか、真島吾朗に知れてしまったらしい。

男自身は何もかも覚悟した上であったからどうにでもしてくれて構わなかったけれど、近江から、そしてこうなっては東城会からも、

妻と、少なくともここで働いている娘だけは、どうにか守ってやって欲しい、と縋りついて真島に頼んだ。

元はと言えば、極道になったことも、それをやめたことも、妻を寝たきりにさせてしまったのも。堅気の小娘を雇ったことさえ、全て自分でまいた種だ。

都合の良い話だと言うことは百も承知だった。何より卑怯な手であるということも。


真島が“善い人”だと分かっていたから。彼が罪もない女たちを無残に殺せるような男ではないと知っていたから。

それはどんなに、彼の傷をえぐることになっただろう。




医者曰く、ショック性のものによる記憶喪失ということだった。

ある大きな出来事が自らの身体と精神に重大な影響を与えると判断された場合、脳が勝手にその記憶を消してしまうのだと言う。


「人間には、覚えていなくたっていいこともあるんだから」


とはいえ、私の身に何が起こったのかということは脳に頼るまでもなく包帯でグルグルにまかれてベッドに縛り付けられているこの状況からして、推測することは容易だった。

それは手に握ったまま、なかなか掲げてみる気になれないでいる手鏡を使えばもっと分かるようになるに違いない。

ただやはり実感と言う点においては、ぼやけているところがあるのだろう。

面会謝絶を押し切って病室に入ってきた店長の酷い顔に向かって「私のお葬式にでも言ってきたんですか」と少し意地悪な事を呟いた私は、うっかり彼を泣かせてしまった。


足元に縋りついて布団の替えを持ってきてもらわなければならないんじゃあないと心配になるほど泣いて、いい年をしてしゃくり上げながらその店長が語った事を大まかにまとめたが先の話だ。

彼にしてみれば、私がどうしてこんな目に合うことになったのか原因を知りたがっているだろうと思って文字通り泣く泣く教えてくれただろうけれど、

全て明らかになったところで、はっきり言って内心の複雑さは増すばかりだった。


店長が元とはいえ極道だったこと、妻があったこと、その妻が病気だったこと。情報の売り買い、近江連合、東城会、そして店長が私の事をどのように思ってくれていたのか。

何にも知らなかった、ということだけが分かった。

もしくは知ろうとさえしていなかったのかもしれない。自分のことに一杯で周りのことになんか目をやる暇はなかった。

いかに自分が思い込みと臆病の殻に閉じこもってなにも見ていなかったかがよく分かる。


“幸せの国から来た、みたいに見えんねん”


まったく真島さんの言う通りだ。彼に会うまで私は、本当になんにも知らない世界で暮らしていたのだ。


とつとつとあの時のことを思い出していると、彼とピアノのレッスンをしていたことがすでに遠い昔の出来事の様にも思われた。

まるで、つかの間“不思議の国”に旅立っていたような気さえする。

竜巻のようにあっという間に巻き込まれて、わけもわからぬまま彼を好きになって、


「・・・真島さんの身も、今は危険なんだ。きっとどこかに身を隠しているんだろう」


元の世界に帰ってきてしまった今、私は“やっぱりお家が一番”と言えるだろうか。


「 全部、僕のせいだ・・・・すまない」


覗きこんだ手鏡の中の私の左目は、身体の至る所と同じくガーゼが貼り付けられていた。

おそらく瞼が切れるかなにかして、恐ろしく腫れあがっているのだろうということが布越しの熱で分かる。道理で視界が悪いわけだ。


「 お嫁の貰い手、どうしよう」とまたもや飛んで来た意地悪な虫にそそのかされて、私はやっぱり店長を泣かせた。


   §


――いったいどれくらい眠っていたのだろう。

時計もない病室で私はすっかり時間の感覚を失ってしまっている。

ブラインドを下ろされた窓の外はさっきよりも暗くなっているような気がしたが、それがここに入院してから5日目の夕日なのか、6日目なのか正確なところは分からない。

驚くべきことに運び込まれた日からぶっ続けで3日も眠っていたにも関わらず、今の所私の眠けが尽きる様子はなかった。

仕事柄による慢性的な睡眠不足の身体が、ここぞとばかりの解消を試みているのかもしれない。

唯一時間の経過を現す喉の、ひりつくような渇きに水を頼もうとして、しばらくはここに泊まり込みするつもりで私の世話をする、と張り切っていた店長の姿が見当たらないことに気づく。

おそらく売店かどこかへ出かけているのだろう。

ナースコールなら目と鼻の先にあるが、この程度のことで忙しい看護師さんたちを呼ぶのもためらわれる。

仕方なく殆ど自由の利かない体でどうにかもぞもぞと芋虫の様に少し離れたテーブルの上にあるストロー付きのペットボトルに向けて手を伸ばしていると、ノックの音がした。

回診だろうか。


運が良かったと思いながら「はい」とほとんど音にならない返事をする。私がみっともない状態になっている身体を少し起こすのと誰かがカチャリとドアノブを回すのは殆ど同時だった。

片目なのと、鳥目なのが相互に作用したおかげで相手の姿はほとんど輪郭程度にしか分からないけれど、どうやら部屋に入ってきたのは医者でも看護婦でも、店長でもないようだ。


とても、背の高い・・・・男の人。


「・・・・――じま、さん・・・」


寝ぼけているとはいえ、よりによって来るはずもない人の名前を呼ぶなんて。


「 邪魔するで」


私の声が擦れていてよかった。ぱりぱりに乾いて空気中に消えるようだったあの人の名前は、きっと彼の元にまで届かなかっただろう。

音を立てないよう後ろ手にゆっくりと戸を閉めてから、薄暗い部屋の電気をつけたのは、


「みなみ、さん・・・・?」


こんなに分かり易い人もいないのに一瞬それと分かりかねたのは、例の剃りこんだ頭以外ピアスもなくて、あまり身体にあっていない黒いスーツも、まるで別人みたいだったからだ。

まさかこんな所に裸で来るわけにもいかないだろうが。


「あ、あの・・・――」

「・・・ああ?なんや? なんて言うとんのかさっぱり分からん」


どうしたんですか、なんでここが分かったんですか、どうしてあなたが。

尋ねたいことは山ほどあったけれど、彼が眉を潜めながらぐんと近づけた耳にさえ届かず、ようやく私は当初の目的を思い出す。


「う・・・すい、ません・・・のど、が・・・」

「のど?・・・ああ、水か」


南さんの勘の良いことは大いに助かったが、どうやら人の感情の機微を読むことには長けていなかったらしい。

関節の可動の問題で子供の様にピンと伸ばされた私の腕をかいくぐり、つんと唇に触れたストローの先に、私は十秒前の己を思い切り殴ってやりたい衝動に駆られる。

この人は私の事を赤ん坊か、もしくは動物か何かだと思ってないだろうか。


「早よ、飲み」


喉を通り抜ける生温い水に目を白黒させて、喉が潤ってもなにかが引っ掛かったようにわざとらしくて咳払いを繰り返した私は“ありがとう”と言うのに随分苦労した。

とはいえ当の本人は病人を子細に観察するのもためらわれるらしく、どことなく目線を宙に浮かせたまま彼はボンヤリとベッドの脇に立ち尽くしたままだ。

親切か意地悪か計りかねると思っていたけれど、そんなこと自体、彼は考えていなかったのかもしれない。

さっきまで店長が座っていた丸イスにかける様進めたけれど、すぐに帰ると言って断られてしまった。


「 ほんで――・・・元気なんか」

「まあ、そこそこ。元気な人は入院なんかしませんけどね」

「あ、ああ・・・まあ、そら・・・そうやろな」


店では何度も顔を会わせているのに、こうして面と向かって話すのは初めてだ。

明るい蛍光灯の下で見る南さんは真白な病室の壁にそぐわないからか、よれたカッターシャツが苦しそうに見えるからか、

身の置き場がないようでどこか落ち着かなげに見える。

と思ったけれど、私自身の気まずさがそう見せているだけなのかもしれない。


「 えっと・・・」


薄い唇を固く結んだまま、いっこうに口を開く様子のない彼を急き立てるつもりはなかったが、

ダラリとした右手に握られた大きな包みを注視すると南さんは急にハッとしたようになって私の膝の上に、色とりどり騒がしい花束を少し乱暴に置いた。

分からないから店中の花を全部入れましたって感じだ。


「――あかんな、やっぱ慣れへんとこは調子狂うわ。 相変わらず辛気臭いのぉ、ここは」

「そうですか。何にもしなくていいし、ご飯は結構おいしいし、皆優しくしてくれますし、住めば案外都ですけどね」


いつもの誰より威勢のよい笑い声とは程遠く、彼の微笑は冷たかった。


「 せやから、文句の一つもない言うんか」


それでようやく私は、自由になった途端小刻みに震えるほど力強く握られ拳に、緩く弧を描く唇に反して暗いその瞳に、


「・・・・よう言うわ、一人で水も飲まれへんくせして」


彼が怒っているのだ、ということに気がついたのだった。

きっとこの病室に入ってきた時から。もしかしたらもっと前から。


「あんたは、アホや」


きっと全部分かっていて、私の代わりに怒ってくれているのだろう。もしくは本当に私のバカさ加減に腹を立てているのかもしれない。

わざわざ作る必要もない傷を作って。返ってくるはずもない人を待って。

けれどその怒りの矛先を親である真島さんにはもちろん、仮にも病人である私にもぶちまけるわけにもいかないからこうやって堪えているのだ。店で椅子を振り回していたあの彼が。

おそらく私から罵詈雑言の類が聞けることを期待していたのに当てが外れた、と言うこともあるのだろう。

わざわざ嫌な仕事をしに来てくれたとはいえ、詰らないから腹を立てられる、なんて妙な話だけれど。


「・・・私も、そう思います」


それでもそんな彼の“お節介”が私は嬉しかった。

南さんだけじゃない。店長やわざわざ顔を出しに来てくれた店の常連さんたちや、父にも。

私は愛されていたのだと言うことが、拒絶していたのは私の方だったということが、ここへきてようやく分かったのだ。

“安全”と自分で引いた線の一歩向こうに出るだけで世界がこんなに違って見えるなんて。


「 私はほんとにアホ、でした」


それが全部真島さんのおかげと言うわけではない。こんな目に合わなくたっていつか分かったことなのかもしれない。

結局好きだという気持ちに、理由なんかないのだろう。少なくとも今、私は何一つあの人を責める気にはなれないし、後悔もしていない。

ただ一つ、恐れているとすれば“私の気持ち”が結果として彼を傷つけることになってしまったのではないかと言う事だけだ。

だからやっぱり私は、今も馬鹿なのだろう。


「 ハー・・・――ほんま、つくづくとぼけたやっちゃなぁ・・・・なんや、心配して損したわ」


不憫にも南さんは張り合いにもならない相手に何を言っても無駄だと悟ったのか、盛大にため息をついて背中をぐんにゃりと曲げた。

そうした時の背中が、とても真島さんに似ていると思う。


「もし泣いてたら、慰めてくれました?」

「そりゃ、仮に惚れた女やから何でもつけ込めそうなら使うがな」


こうやって唐突に心臓に悪いことを言う所も。

言ったってどうせ、本人同士は認めないのだろうけど。


てっきりこのまま素知らぬ振りをしてくれるのだと思っていた私が思わずギクリとすると、してやったりと言いたげに南さんの唇の端がつり上がった。

それからまた、嘘のようにその微笑みは跡形もなく立ち消える。


「せやけど・・・自分をこんな目にあわした奴らを探し出すんにはアンタはもちろん、親父や俺がどう思っとるかは関係ない。真島組のシマで好き勝手やったケジメはちゃんと取ってもらわなな、」


世間話などをしに彼がわざわざここまでやって来たわけではない事は分かっていた。独り言のようなその呟きにおそらく私の返事や了承などはいらないのだろう。


「 さて、ワシも忙しいからもう行くわ。ま、せいぜい達者でやりや――ほな、」


名残惜しむ様子もなくあっさりと“さいなら”と言って南さんは合わないカッターシャツの襟ぐりを直しながらクルリとこちらに背を向けた。

軽く突き放されてしまったようで、少し傷ついた気分にさえなる。

本当にこの人は私の事を好きだったんだろうか。


こうなってしまった以上、彼らの世界にこんな形で巻き込まれてしまった以上。こうなることは分かっていた。

きっとこの先、南さんが私の働く店に顔を見せることはないだろう。二度と顔を見ることもないかもしれない。

こんなに目立つのに、彼らはあっさりと街に、闇に溶け込んでしまう。目の悪い私にはきっと見つけられない。今までの様に。

そして私は、いつもの生活に戻るのだ。

安全で、幸せなガラスの向こう側。


「あの・・・――」


ちゃんと分かっているのに、聞かずにはいられなかった。


「・・・真島さんは、」


なにかに怯える様にキスをしたあの人は。意地悪で、そのくせ誰よりも優しいあの人は、今もこの街のどこかにいるのだろうか。例え、私の事なんか忘れていたとしても。

いいや、忘れてくれていた方がいいのかもしれない。

病室の戸に手をかけていた南さんがピタリと動きを止めた。でも、こちらは振り返らない。


「親父は――・・・」


彼の言葉を待つ間まるで全てのモノが、時さえ、止まったような気がした。


「  親父は、死んだ」




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