掌編

□05
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母は今にも泣きだしそうに潤んだ色素の薄い瞳を持っていたけれど、芯の強い人だった。反対に私の父は見かけばかり偉丈夫で、内側は薄い氷の膜の様に脆かった。だから母の死に耐えられず、酒に溺れた。
私はその母によく似た目と、父と同じ臆病を受け継いでいる。



雪を運ぶはずだった重い雲は夜になっても依然として動かないまま、時折細い雨をシトシトと降らした。
その冷たい雨に運ばれてきたのだろう。今夜の客は見ない顔が多い。

その中の一人は店に入ってきた時からすでに目が座っていて、正直なんだか嫌な予感がしたのだけれど。案の定、大人しく座っていたのはものの10分ほどで、くだを巻きはじめた。

いつもの様にピアノを弾いていた私に向かって酒を注げと言うのだ。
私はもちろん“そのようなことをするために働いているのではない”と断ったのだけれど言い方がまずかったのか、何でもいいから腹を立てるきっかけが欲しかったのか。男は怒鳴りながらカウンターの上の酒瓶を叩き割った。
だから父の事を思い出したりしたのだ。彼もこうしてよく物を壊していたこと、他の人に聞かせる様に大きな声をだしたこと。臆病で、私を殴れなかったこと。

彼から離れる様に一歩一歩後ずさりながら私はもしかしたら、憐れみを顔に出していたのかもしれない。
今度こそ殴りかかろうと立ち上がった男はしかし、隣に座っていたやはり見覚えのない顔の客に羽交い絞めにされて何もできなかった。

「――そこに居れば安全だと思ってるんだろうがな!」

それでそんなことを叫ぶしかなかったのだろう。他にも色々汚い言葉を並べていたけれど、あまり覚えていない。
珍しく血相を変えた店長が、その親切な客に手伝ってもらって男を店の外につまみ出してしまったせいもある。
他のどんな罵倒よりその言葉が一番深く突き刺さったということもある。

傷ついたのは、事実だったからだ。
耐えきれず父の元からほんのちょっとの距離をにげだして「ここで安全」。諦めきれない夢の名残にぶら下がるような仕事をして「ここで安全」。私のピアノはすぐそこで香る酒や煙草とは離れているから「ここで安全」。

私はずっとずっとそうやって、生きてきた。


   §


「なんやぁ? 元気ないやないか」

今日は主に左手の伴奏の練習だった。
メロディラインと違って形を掴むことが難しいので、私は真島さんの右手になったり左手になったりしてちょっとずつ進める。
ようやく真島さんがファやミの場所に迷わなくなったおかげで昨日に比べればずっと練習はスムーズだったけれど、新たに現れたフラットと黒鍵がまた次なる混乱を彼に招いたようだ。
確かに楽譜というものがないので、全て覚えることしかない真島さんには殊更ややこしいだろう。ここで半音下がる、こっちは下がらない。

ただ、昨日にも増した熱心な指導だったにも関わらず、私のぼんやりを目敏く嗅ぎつける余裕は残っていたらしい。曰く“今日のビックリ”がない。ドジもない。コーヒーが妙に薄い。
最後のは確かに私の『心ここに非ず』が起因しているような気がするが、後の二つはいつも真島さんのせいだ。
真島さんが驚かすような真似をしなければ、私はビックリしたりしないし、ドジも踏まない。と、何度説明しても、彼はちっとも理解しない。
多分次から次へと覚えざるを得ない音符のせいで、心太の様に押し出されているんだと思う。

「・・・そういえば、今日は失礼なこともあんまり言わないみたいだし、調子悪いのは真島さんの方じゃあないんですか?」
「アホー、それは今のあんたに何言うてもなんもおもろないからで、俺は元気バリバリじゃ――ほんま、ハニワみたいな顔しくさりよって」

まさか彼の口から“心配だから気を使った”とかいった類いの言葉が聞けるとは期待していなかったが、それにしても。
ハニワ。仮にも意気消沈する若い娘の例えにあんな土っくれを焼いただけの間抜けな置物を引き合いに出すなんて、デリカシーがないにも程がある。
したがって、沈んでいた気持ちが彼の顔を見ただけで少し晴れたような気になったのは、やっぱり勘違いだったのだ。
仮に、もしそうだったとして。
単に真島さんの一度も悩みを持ったことないのではないか、という顔にグズグズ考え込んでいるのがバカらしくなっただけなのだと思う。
決して、昨日の彼の言葉を思い出してはドキリとする、という様な堕落を繰り返したせいではない。

「どうせ嫌な客が来たとか、客に言われたとか、そんなしょーもないことで悩んどんのやろ」
「・・・・」
「図星か。ケッ、つくづく捻りのないやっちゃのう。単純ちゅうか、単細胞ちゅうか、ドジっちゅうか」
「ドジは関係ないでしょっ、っていうかドジじゃあないし! ・・・ほっといてください」

真島さんには関係ないことなのだし。とはいえ彼はこの話を単純に関係なし、と片付けるつもりはないようだった。

「アホ、問題大有りや。あんたの場合、分かりやす過ぎんねん」

“分かり易すぎる?”
言ってることの意味が理解できないでいる私を焦らすように、真島さんは胸ポケットから煙草を取り出す。
今ここで吸うつもりかもしれない。そう思ったら知らず顔をしかめていたのだろう私に、彼は突然「それや」と言った。

「その顔。あんた今俺が煙草を吸おうとしたんを“不快”や、思たな?」
「は、はぁ・・・まあ。煙草苦手なので」
「せやろ。あんたのその目見とったら丸わかりや。喜こんどるか、怒っとんのか、驚いとんのか。悩んどるのもな」

それって本当なのだろうか。
そんなに大袈裟なつもりはないけれど、と思わずピアノにぼんやり映る自分の顔を覗き込んでいると、それを横目で見ていた真島さんがニヤニヤ笑っていて、言葉に詰まる。こういう所なら、確かに。心当たりがないでもない。

「で、でも、そんなの普通ですよ」
「せやねん、普通や。むしろあんたほど、メチャメチャに普通な人間もおらん」

それは、あまり褒められてないような気がする。普通に勝るものはなく、彼の基準からすればおそらくはほとんどの人間が“普通”の枠組みに入るであろうことを鑑みても、だ。
大体“メチャメチャに普通”って具体的にはどういうことか聞きかけた私は、しかし私の顔をまじまじと見つめる真島さんの目に押されてなにも言えなくなってしまう。

「でもな あんたの普通は“ココ”では普通とちゃうんや。自分が脚半分突っ込んどるのはどっちかっちゅうと、肚ん中が割れたら終わり、ゆうような世界やねん。せやのにあんたときたらコロッコロ、コロッコロ面変えよって、その上ビビリときとる」

そこまで言い終えてから真島さんは一度言葉を切って、ため息を吐いた。“ほんま、どうもならん”って感じに。
肚が割れるだの普通とは違うだの場末の飲み屋を語るには少々言葉が大げさな気もするが、それってつまり私はここに働くのにはむいていない人間だと言いたいのだろうか。

だからさっさとこんなところ辞めてどこへなり行ってしまえって?
だから彼なりの親切心でこんなピアノのレッスンの話など持ち出してきたって?
そのように思いついた途端、すっかり彼の“有り難い説教”を聞く気は失せてしまった。
そんなこと、いちいち他人に指摘してもらわなくても自分が一番良く分かってる。

口が上手いわけでも、器量が飛びぬけているわけでも、度胸があるわけでも、志が高いわけでもない。
なんにもない。私はこの街にちっともふさわしくない人間だ。
それが分かっているからってなんだ。そんなの親切でもなんでもない、と幼い私が心の中でわんわん吠えた。
まるで、それ以上聞きたくないみたいに。

「“幸せの国から来た”みたいに見えるんや。そりゃ、嫌味も言いたなるわな」

私が本当にどんなところで育ってきたのか、こんなピカピカの高級な靴を履いた人に分かるわけがないのだ。
全部私が悪いから、だから謂われない悪口にも耐えろだなんてそんなあんまりじゃない。バカ、アホ。
いよいよ子供の喧嘩みたいな言葉が口を付いて滑りだしてきそうになるのをこらえると、今度は目頭がじんわりと熱くなった。
それにしてもこんな皮肉な話が世の中にあっていいのだろうか。
“虹の向こう”に行きたいと願っていた私がそこから来た“アホ”に見えてるなんて。
酷い話だ。そんなひどい話を彼の口から聞きたくなかった。

「だ、だったら、変わればいいんですか・・・・?」

無表情で、何事にも動じなくて、失敗もしなくて。どうやったらそうなれるんだろう。
こんなに願っていても何も変わらなかったのに、どうやれば私は“私”じゃなくなれるんだろう。
答えられるなら答えてみろと言ってやりたかったけれど、声を出したら泣きそうなことを気取られてしまいそうだったから、黙って顔を伏せる。
膝の上で握りしめた拳が小刻みに震えていた。

真島さんは正しいと本当はわかっている。本当にバカでアホは私の方だ。こんな風だから、ダメなのだ。
こんな人間だから、私は、誰にも、愛されない・・・・父にさえ。

「・・・―――はぁ? なんでそうなんねん」
「え?」

けれど、返ってきた答えが、あんまりにも拍子抜けだったから、思わず顔を上げなおした瞬間ジワジワと目頭に溜っていた生暖かい涙が一粒、頬の上を滑り落ちて行った。
もっとも、幸い真島さんは真正面をむいていたから彼の右目からでは見えなかっただろう。慌てて頬を拭う。

「だ、だって、今“コロコロ顔変える”から“嫌味言いたくなる”って自分で・・・」
「そないな奴も居るっちゅう話やろが! だいたいなんでそんな“いけすかん”ヤツのためにあんたが変わらなあかんねん」

そうだろうか、と思ったけれど、まだはっきりしゃべることが出来るほどに感情の波が引くには時間がかかりそうだったし“せやろ”と念を押すように言われて私はつい「うん」と頷いてしまった。

「それにあんたから顔芸取ったら、他になんが残んのや」

また「うん」と頷いてから、顔をしかめた私を見て「チャウチャウ」と言った真島さんはどうやら喜んでいるようだ。ボーっとした頭で“チャウチャウ”がどの様だったか、思い出せないことが救いだろう。

「あんたのそのボケッとした顔のまんま居ったらええんや。 嫌味言いたなる奴も居れば、その分かりやすい顔がええっちゅう変わりもんも居るやろ、」
「・・・・うん」
「せやから南も、あんたに惚れとんのとちゃうか」
「う、ん・・・・―――はぁー?!」

あんまりサラッと言うものだから危うく流されるところだったけれど、さすがに“うん”と言って聞き流せる話ではなかった。

南さんが。あの剃り上げて、痛そうなピアスと派手な刺青の(そしてちょっと音痴な)南さんが。
おそらく今日一と見られる真島さんの満足げな顔に今までの話全て、この落ちのためなのではないかとさえ疑う。今にドッキリ、の立て看を彼が持ち出してきそうな気がした。

「なーんややっぱり気づいとらんかったんか!鈍いのぉ。思い切って“手を握って”も分からんかったそうやな」
「に、握るー?!握り潰すの間違いじゃあないですか?」
「イッヒッヒ。大照れやなぁー?あんたも可愛いとこあんのやないか」

茹でダコ、と言われるまでもなく十分血が集まって熱い頬を隠すように私は両手で顔を覆って項垂れる。すると増々真島さんは大人げなく囃し立てたけれど、顔で分かると言った彼も根本的に分かっていないことある。

私は確かに“南さんの好意”にも赤面していたけれど、なにより恥じていたのはもう少しで口に出し聞いてしまう所だった自分自身だ。

『――あなたは“このままで居れ”と言った私をいったいどう思っているの』

それで一体どういう答えを貰おうとしていたのだろう。そして、私は。
私は、どうしたらいいのだろう。

これ以上、彼の事を好きになってしまうと、深みにはまってしまうと。私はきっともう「ここで安全」とは言っていられなくなるのだ。




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