掌編
□03
1ページ/1ページ
案の定ぐちゃぐちゃに潰れていた卵はビニル袋に黄色い斑点を飛ばすだけじゃ飽き足らず、私の新しいコートの裾にまで飛び散って、さっそく固まっていた。
すぐそばでなにかブツブツ言った男の初めの方が聞き取れなかったのは、そのせいだ。
「おい、」ともう一度言われて我に返る。
「・・・なんや、あんたいっつもそんなんかいな」
「え?い、いっつも、って・・・」
「この間も転び落ちよったろ」
“この間”とはいったいどういう事なのだろう。意味が分からず私は泳がせていた視線を一度目の前の男に合わせて、また外した。やっぱり見覚えはない。
この男の見た目からして忘れているだけ、と言うこともまずないだろう。一度あったら死ぬまで忘れない(忘れられない)性質の顔だ。
それに彼の口ぶりからすると私はまるで甚だしい“ドジッ娘”の様(もう娘と言っていい歳ではない、なんていうツッコミは受け付けない)だけど、いつもいつもこのように情けない失敗ばかり繰り返しているわけではない。決してない。
ただ偶然立て続けだっただけだ。
あの夜以来、この数日――「 あっ・・・」もしかして。
「あなた――マジマさん・・・?」
「はぁー? なんや今更。お前、俺が誰かも分かっとらんかったんか」
早とちりで警察に電話しなかった事に、そして彼が少なくとも私の想像しうる最悪を招く人間ではなかった事に私がホッとする一方で彼――真島吾朗――はほとほと呆れたようだった。
「だ、だって、あの時よく見えなくて、」
「見えんって、ほなあんたのその二つの目玉は何のためにくっついとんのや」
それは自分の目が一つしかないこと引っ掛けた冗談なのだろうか。全然笑えない。そういえばあの暗闇の中、ライターの灯りに照らされて彼の左目に白い靄のようなものが浮かび上がったのを思い出した。
あれは彼の眼帯の上に光る白い蛇だったのだ。
「それで、あの、今日はどうされたんですか?店長でしたら呼びましょうか?」
そもそもあの後店長にはちゃんと会えたのだろうか。それともまたしても私は彼らのすれ違い交流の伝書鳩にされるのだろうか。
こちらに向かい合ったまま、またピアノの椅子に腰をおろした真島さんはさっきが嘘だった様に背中を丸めた。
「いや、用事はさっき終わったとこや。ちぃと人に会うんにあんた店長に言うて、店貸してもろてん」
「ああ・・・そうなんですね」
店長ときたらほんと、誰にでも鍵を貸してしまうのだから。もしも違法な白い粉の取引などここで行なわれて、大変な目に合うのはどちらだと思ってるのだろう。
真島さんも、真島さんだ。
元はと言えば彼がピアノなんか弾いているから、私はマヌケなスパイみたいにカウンターの後ろに隠れる羽目になったのだ。
もう用事は済んだのならさっさと帰ったらいいのに、と思ったがもちろん黙っていた。でも言いだすべきだったのかもしれない。
困ったことに真島さんは、私が壊れた卵を除く買い物袋の中身をあらかた片づけてしまっても店から出る様子を見せなかった。どこか呆けたように宙を見つめたままだ。
何か考え事かもしれない。が、それは他所ではできないのだろうか。
いつもならこの後私は30分ほどコーヒーブレイクを楽しむのだけど、そうなると一応とはいえお客様にも勧めないわけにはいかないだろう。
それとも彼みたいなタイプにはお酒の方がいいだろうか。どちらにしても今更感が否めないが。
「なあ、」
まごついている間にまた先を越されてしまった。つくづく自分の優柔不断さが嫌だ。
「ジングルベール、ジングルベール鈴が・・・の次はなんやねん」
「はぁ?」
「せやから鈴が“鳴 る”のとこや。どれ押したらええんや」
「あ、ああ、そういうことですか・・・それなら、ええ・・・レと、ミです」
あんまり突拍子がないから、今度はいったい何を言い出したのかと思った。
おかしなことに椅子の上でクルリと回ってピアノに向き合うと、また真島さんの背筋はピンと張りつめる。それから何秒か、鍵盤をじっと見つめてから「どれがレとミやねん」と言った。
それに「ドの隣です、」ろくに考えもせず返した私のセリフは多分かなりマヌケだったろう。レもミもわからない人に、どうしてドの場所が分かるのか。
「えっと・・・つまり、その“鈴が”の時押した音の右隣です・・・」
「ああ?もうそんなん忘れてしもたわ。ええから、ちょっとこっち来ぃ」
「えっ・・・?」
どうしよう。ハッキリ言って遠慮したかった。いくら店長が“善い人”だと言ったからって、セリフだけ聞いてれば人懐っこい関西のおじちゃんみたいだからって、彼はあの東城会の大幹部だ。
「いや、あの・・・」
おまけに目玉が一個ない。ついでに服の趣味も私には受け入れがたい。何より私は“男の人”という人種自体、苦手だ。出来ればカウンター越しの安全圏内に留まっていたかった。
とはいえ明らかに渋い私の声を聴いても真島さんの方は全くめげていないようだ。それどころかわざわざテーブルから椅子を引っ張ってきて自分の隣に据える。
埃っぽい布張りの表面を叩く仕草は多分“ここにお座り”ってことなのだろう。
結局自分で少し距離を離してからその椅子に腰を降ろした私はそれでもたっぷり30秒は迷っていたけれど、彼は急かしたりはしなかった。
そしておそらく臆病な私は、もし彼が少しでも急かしたり、無理強いしてみせたら椅子には座っていなかったはずだ。
(なぜあの時真島さんは何も言わずにじっと待っていたのだろうと、ずっと後になった今でも時々思う)
「・・・――ここが“ド”です。次がレ、ミファソラ、シとなってまたドに戻ります。基本的にはこの八つ、 でも“ジングルベル”なら、ドからソまでで弾けますよ」
鍵盤におろした私の指を真島さんがじっと見ている。
水仕事で少し乾燥しているし、指は短いしお世辞にも“恰好がいい”とは言えない私の指よりも、二オクターブ向こうに添えられた彼の手の方が何倍も、ピアニストらしかった。
つやつやした黒い革の手袋に包まれていても分かる。細くて長い、綺麗な指。きっと爪の形もいいはず。
「ほな、」
その指が突然、触れてしまいそうなほど近まで下がってきてドキリとした。驚いて反射的に震えた指先がソとラの上で滑る。
「あんたがこの間、弾いとったんはどれからや」
「こ、この間、ですか?」
「せやから俺が声かけるまで、あんたぜんっぜん気づいとらんかったんやないか」
「ああ・・・」
そう言えばそうだった、かもしれない。改めて“見られていたのだ”と認識するとなんだか、恥ずかしくなる。
あの時の私は仕事とは違って、見栄えのする腕の動かし方なんて意識していなかったし、テンポもリズムも多分メチャクチャだっただろう。
言うなればあれは素の私だったのだ。自分の部屋でくつろいで、映画を見ながらコーヒーをすすっている時の私。ベッドに寝転んで大あくびをしながら本を読んでる時の私。
まあ傍から見て、一心不乱にピアノを弾いているだけにしか見えなかったのなら不幸中の幸いだけど。
「多分“雨だれ”ですね、ショパンの」
「ショパン、ゆうんか? よう知らんけど、なんか聞いたことある奴やったで」
「いろんなCMや映画なんかにも使われて、クラシックの中でも有名ですから・・・」
「クラシック?そんな固いんちゃうかったろ、確かにタルかったんはタルかったが、もっとなんやこう・・・」
なかなか伝わらないことが歯痒かったのか、真島さんはついに“こんな感じ”を表現しようと歌い出した。きっと情けないのだろう苦笑いの内側で私は更にギクリとする。
彼が指すものが何なのか、すぐに分かった。ショパンの“雨だれ”じゃない。
「思い出したんか?」
「は、はい・・・一応 でも、今すぐってなると、」
「やっぱ、難しいか?」
「そうですね」
ただ彼がずぶの素人である、ということに正直ほっとしていた。いくら勘がいいからって、鍵盤に触れたこともないのに不可能に近い。少なくとも“教える”と言う立場に当たって私にその才能はなかった。
となるとつまり、楽しいピアノ・レッスンはここでお開き、と言うわけだ。店長もそろそろ店に来るころだし、私もこうして遊んではいられない。
そう言えば布巾を新しいのに変えただろうか、とぼんやり考えていた始めた私の横で「ほーん」といつかのように呟いた真島さんは、子供のような仕草で一番高い鍵盤を叩いた。
「ほな、三日でどうや」
「はい?」
「そんな顔してもあかんで、俺も暇やないからな」
「いや、あの、私、お話がちょっと・・・」
「せやから、三日で弾けるようにしてみぃ言うとるんや」
その時私はいったいどんな顔をしていたのか。自分では分からないけど、真島さんの反応から察するに“カワイイ”とは言い難そうだ。
(事実「顔で笑かそうっちゅう様な芸は三流やで」とかなんとか、失礼なことを言っていた)どうしてこの人は初めて会った時から私の腰が抜けるほど驚かすようなことを言ったりしたりするのだろう。
「―――あの、すいません。やっぱり、言ってる意味が分からないんですけど」
「はあ? やっぱあんたちょっと“ココ”悪いんちゃうか」
それは完全にこっちのセリフだった。
なにがどうしたらよりによって私にピアノを習おう、なんて話になるのだ。そして何で私が片目のヤクザにピアノを教えなくちゃいけないのだ。
きっとその大いなる混乱と思考は全て顔に書いてあるのだろう。真島さんは嬉しそうに、そしていかにも意地悪く笑った。
「悪い話やないで、もし上手くいったらもっとええ店にあんた使うてもらう様、口利きしたるしな」
「――えっ? ほ、本当ですか?!」
思わず本能的に食いついてしまった私に「現金なやっちゃなぁ」真島さんは呆れたようだったけれど、彼はこのオンボロ椅子に座って一晩中ピアノを弾くということがどんなに惨めな思いをさせるのか知らないから、そんなことが言えるのだ。
だが、私だってそれくらいで簡単に釣り上げられたりはしない。
確かに魅力的な話だけれど“甘い話程危険”だということは、生まれて20数年、この街で暮らしてきてよく分かっている。
「でも、あの、失敗したりしたら・・・?」
案の定、その質問をずっと待ち望んでいたように真島吾朗は今までで一番ニヤニヤした。
「そうやなぁ、もしあかんかったり、断ったりしたら、あんたがあの時椅子で“コイツ”をぶっ壊そうっとしとったこと、店長に話すしかないやろなぁ」
「・・・・!」
声にさえならなかった私の悲鳴は喉のところで大きな冷たい氷のようにつっかえて、体中の体温を恐るべき速さで奪っていく。
この男はあの夜、いったいいつから私を見ていたのか。いや、聞くまでもない。今私が知られたくない、と考えていることは多分全部見ていたと考えて間違いないだろう。
ピアノのレッスンがどうとか言って、散々私を混乱させて結局、ただこう言いたかっただけなのだ。
“あんたの弱み、握ってますよ”
なんて嫌な奴なのか。
とても店長が話していた“真島吾朗”と同じ人間だとは思えなかった。弱みを盾にとって脅すなんてただのヤクザだ。
いや、そうだって分かっていたけれど。からかっているだけなのかもしれないけど。
なんだかちょっと裏切られた気分。
「ほな、また明日の夜来るわ」
嘆けばいいのか、怒ればいいのか。怒るにしてもその矛先は真島吾朗なのか、マヌケな自分なのか。
あんなに今まで粘った癖に。決めかねて放心する私を置き去りにさっさと店を出てゆく彼の嫌な笑い声がいつまでも耳に残った。
アニメに出てくる悪い蛇の笑い方だな、あれって。
・