掌編

□虹の彼方に
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お酒は嫌いだ。
酔っ払って理性を無くすと見苦しくなるし、他人に迷惑をかけるし、たくさん飲むと中毒になる。中毒になるともっと他人に迷惑をかける。いつもは優しい善い人さえ鬼のように変えてしまう。
暗い部屋の片隅で、大人になったらお酒のすえた臭いや、煙たい煙草や、男の人の握り拳なんかまったくない場所で暮らそうと思った。
可愛い子供たちと清潔な温かい部屋でツルツルした木の椅子に座って歌を歌ったり、手を叩いたりして。

私は・・・――私だって。いつかこんな生活を抜け出せるんだと、そう思ってた。



「ネェチャン、次“アレ”頼むで! 俺の十八番」

ここがまがいなりにも静かな時と酒の余韻を(もちろん静かに)楽しむバーであるだとか、店長は映画に出てくるようなスマートなバーテンでも渋い顔の元極道でもなんでもないただのおじさんだとか、私はその後ろの方でゆったりしたクラシックやジャズなど、彼らの要求する演歌よりもっと古ぼけた音楽を弾くだけの冴えないピアノ弾きなのだとか、そういうことは関係ないのだ。

彼らときたらお酒を飲んで盛り上がれれば小さなバーだろうがキャバクラだろうが、多分道路の真ん中だって良くて、きっと私の事などスナックの片隅のカラオケマシーンくらいにしか思っていないのだと思う。

そうじゃなかったらいくらここが自分の“シマ”だからって、こんなシケた店の安い水割りとウィスキーくらいでここまで伸び伸びと盛り上がれるはずがない。

いつの間に服を脱いだのか―それとも入店した時から着ていなかったのか―ひときわ“伸び伸び”の目立つ派手な刺青の男がキーンと耳に痛いほどハウリングを響かせるマイクを振り回しながらカウンターから飛び降りた拍子に、足に引っかかったグラスが2、3個、床の上で木端微塵になった。
そのような“ヤクザ者”達の大いなる宴と破壊を(当然のごとく止めることもできず)どこか遠い目で見つめている店長は、彼らの居る時はもちろん、不在の時でさえ『決して悪い人達ではない』と呪文のように繰り返している。

でも本気なのかどうかは不明だ。
ケツモチだか、用心棒だか知らないけれど長いこと搾取され続けると、人間というのは都合の良い方に思い込もうとしてしまう。その方が幸せだからだ。

「――おい、そこ。オマエや! なんや、舐めとんのか」

なんにせよ、こうしてピアノに触れて、お金を貰うことが許されている以上、私の“ユメ”は三分の一ほど(私のピアノに合わせてこうして“オウタ”まで歌う人もいるのだから半分なのかもしれない)叶っていると思えばいい。
そうすれば大嫌いな酒や煙草の匂いやその他の些末な物事には大抵、目をつむることができるだろう。
それでも時々、魔法(もとい暗示)は解ける。
こんなところで安っぽいドレスを着て、手癖の悪い客に背中やお尻を撫でられたりして、閉店時刻を1時間も2時間も過ぎても帰らないヤクザにうんざりして、なのに意地を張ってこの椅子に座り続けて。
こんなに惨めなのに、“夢が叶った”などとおめでたい気持ちではどうしてもいられない時もある。

「こんのボケがあ!もっと気合入れて、合いの手入れんかい!」

もう誰もピアノの演奏などに耳を傾けてないのに、ボーッと引き続けている私の脇を、理不尽としか言いようのない理由で今日もまた誰かが殴られて、テーブルと共に吹き飛んでいった。
毎度の事、と呆れながらふと鍵盤に触れている自分の指が震えていることに気づいて、心底嫌になる。

もちろんいつもいつもこんなに煩いバーじゃない。
ここがこの街の一番最低な場所と言うわけじゃない。
ここの他に行く当てがあるわけでもない。

「ほら、ネーチャン。もう一曲や!まだまだイくでぇ!」

それでも。
ぐじゃぐじゃの乱闘になった店内の隅で呆けていた私の腕を刺青の男が無理矢理引っ張って、丸イスが耳元を掠めた時、今度こそ限界だと思った。

もう嫌。馬鹿みたいだ。
歯を食いしばって耐えるほど価値のある仕事だろうか、これが。
死ぬまでこんなところにいなきゃいけないなんて絶対に御免だ。

――今日こそ。
今日こそ、こんな所辞めてしまおう。


  §


多分店長は馬鹿だ、というと少し言い過ぎかもしれない。
でも馬鹿じゃないとしても、少し考えが足らなさすぎる。
私だったら絶対、こんな見るからに“精神の不安定”な顔をした女の子に店の鍵を渡してさっさと家に帰ってしまうようなことはしないだろう。

そんなこと言ったら私みたいなのを雇った時点で、もう大間違いなのかもしれないけど。
めちゃくちゃなテーブルも壊れた椅子も、割れたコップもそのままに、人だけが居なくなった小さなバーは周りの喧騒も遠くて、いつも以上に寂しい感じがした。

ネオンの乱反射する薄暗い部屋でピアノの傍のスタンドの灯りだけを付けて、どっと押し寄せてきた疲労感に思わずため息を吐くと、唇の隙間からついでに燃え上がっていた怒りまでも一緒に漏れて行ってしまったような気がする。

今からこのピアノを壊して、狭いアパートから有り金だけを掴んで別の街まで逃げなきゃならないのに、そんな元気がまだ残っているだろうか。
だいたい出ていく出ていくってどこに行けばいいんだろう。
とりあえず電車で行けるところまで行って、降りたとして、そこでどうやって生きて行こう。
大学どころか高校もロクに行っていない様な女が生きる分稼ごうとしたら、働ける場所なんてたかが知れてる。
ホステスか、風俗嬢か。今よりマシになることなんかない。この街から出たって結局同じだ。

ただピアノなんてただの“ユメ”からはこれでようやく離れられる。
こんなものがあるから私はいつまでたってもただの家出少女なのだ―――
なんて。

「…―――バカみたい、」

こんなことしても何にもならないのだ。本当はこんなオンボロピアノのために、この街に縛り付けられているわけではないことくらい分かってる。
このまま振り下ろしてしまえば間違いなくこの艶々した塗装に何かしら傷をつくるだろう椅子は無駄に重たくて、私には10秒持っているのがやっとなくらいだった。

どういう生活をしていればこんなものを投げたり、振り回したりできるようになるのだろう。
私の腕をつかんだ派手な刺青の男の握力を思い出して思わず顔をしかめる。

痛かったな、あれ。
こんな情けない腕力じゃ、いくらオンボロと言ったって、仮にも木で出来たピアノを壊すことはとても出来ないのかもしれない。

私に出来る嫌がらせときたらせいぜい、めちゃくちゃに調律を合せておくことぐらいなのかも。
なんだかいよいよ馬鹿馬鹿しくなってきちゃったな。


よろよろと椅子に腰を下ろして、手の平をついた鍵盤は相変わらずサラリとしていて指に良く馴染む。
おおむねいい音なのだけど、低い方から二番目のDの音が少し高音にずれるクセがある。
おかげででショパンの雨だれはいつも歪んだ音から始まった。
それがちょっとだけ昔飼ってた仔猫の鳴き声を思い出させて、私の気を落ち着かせるにはちょうどいい。



少し冷静になった頭でこれでこの街から逃げ出そうと試みたのは今月で三回目だ、と漠然と思った。
言わずもがなその決心が崩れるのも三度目だ。

いい加減学習すればいいのだけれど、私にしたらそのいちいちが本気のつもりなのだから仕方ない。
怒って電車に飛び乗ったこともある。でも途中でどうしようもなく不安になって、最後には帰ってきてしまった。
どこでも生きていけるような勇猛果敢な人間なら、こんなしみったれた生き方をいつまでもしてないということだ。

結局ここから出たところでこの国に、いや世界中のどこにも夢の国があるわけじゃない。
ドロシーはハリケーンに乗ってカンザスから出て行ったけれど、ここに住んでいる限り私にはそのチャンスもなさそう。

“虹の彼方のどこか、空高くに”

「――…なんや、そこで椅子をピアノに振り下ろす派手なパフォーマンスとちゃうんか」

暗闇から突然降って湧いた声にギョッとして咄嗟に立ち上がろうとしたけれど、もつれた足が言うことを聞かず、結果として両手でけたたましい音をたてながら私は椅子から転がり落ちた。
その拍子に洋服の生地がビリッと嫌な音をたてたから、もしかしたらどこかが破れてしまったのかもしれない。

まとわりつくスカートの裾に辟易しながらなんとかピアノの下からはい出した私の目の前、薄ぼんやりとした店の壁際に立っていたのは男だった。
随分大きいと思ったのは私が床に座り込んでいるせいもあるだろうが、とにかく背の高い男だ。

椅子にコップにテーブルに、なんにも片付けていかなかったとは思ったけれど、まさか店長はさっきの大乱闘で伸びたヤクザまでもそのまま放置して帰ってしまったのだろうか。
打ち付けたせいでじんじん痺れる腰を撫でさすりすることもできず、あんまりのことに声も出ない私を男はじっと見下していた。
今、彼はいったい何を考えているのだろう。

場合によってはもしかしなくても、この状況は不味いのかもしれない。
だってどんなに“悪いヒト”じゃあないって言ったって、これは間違いなくヤクザだ。
仁義を重んじるヒーローなんて映画の中だけで、野放しの囚人と変わらないのだっている。

「どうしたんや、自分 ボーっとして。大丈夫か?他の奴らはどうしたんや?」
「え、ええ?ほ、他…ですか、他はえっと……」

「皆帰りました、店長もいません」なんて言っても大丈夫なんだろうか。大丈夫じゃないかも。
もし大丈夫じゃなかったらどうなるだろう。
彼は私を殴って店のお金を持って逃げるようなチンピラだろうか。
それとも女と言う生き物にもっと恐ろしい暴力を振るうタイプだろうか。
でも適当な嘘を言ったせいで、怒らせてしまっても怖い。

「まあ、言わんでもなんとなく分かるけどな。どうせ店の酒飲むだけ飲んで大暴れしよったんやろ」

黙りこくっていても私の顔色を読みえたのだから、多分彼の方からはこちらがよく見えるのだ。
現場にいたわりには妙に他人事のように話をするなとは思ったけれど、まったくその通りだったから私は馬鹿みたいにコクコクと首を縦に振った。
それもやっぱり見えているのだろう男は「はー……かなんなぁ」と、あからさまにため息を吐いて煙草に火をつける。

ライターの灯りで一瞬だけ浮かび上がった青白い顔のちょうど左目の辺りに、白く光る靄のようなものが揺らめいた気がして少しだけ不気味だった。

スタンドの明かりを受けて唯一私の目線からハッキリと見える男の靴は先がとがっていてピカピカしている。
きっと高いんだろうな。極道稼業は儲かるって本当なんだ。

「店長も帰ってもうたか」
「……は、はい、」

余計なことに意識をやっていたせいで、つい正直に答えてしまったことを後悔する暇もなく、おそらく男の靴が砕けたガラスを踏みしめた音に私はギクリと体を強張らせる。

「しゃあない。また改めて挨拶に来るわ。“マジマ”が来たて伝えといてくれ」

でもなにもしなかったし、されなかった。
ただピアノに手を伸ばして一番高い音を――ピンとしかならない奴だ――叩いてみただけだ。
それから「ほーん」みたいなことを言った。
それがどういう“ほーん”だったのかはもちろんわからない。

「―――ほな、な」

呆然とする私が、もしかしたら彼は最初からこの部屋に居たのではなくて、知らない間に店に入ってきたのではないかと気づいたのは、ドアストッパーが挟まったせいで半開きになっている勝手口の戸を見つけた時だった。





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