掌編

□戯言症
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初めてキスしたのはここだった。彼の唇は少し冷たくて涙の味がした。


フアッと少し欠伸をした瞬間に指先を滑らして、アスフォデルの球根の粉末が天秤なんかでも確認できないぐらいの量、多めに入る。

思わずピクリと神経質に片眉を上げた私はもしかしたらあんまりにもしつこく張り付いているがために教授の貰わなくていいような癖までうつってしまったのかもしれない。

今にあの他人の神経を逆なでするような話し方まで似通ってくるんじゃないかと思ったら背中の辺りがゾワッとした。


冗談じゃない。気を付けよう。


思った通り濁ってきた鍋を仕方なくグルグルかき混ぜながらため息を吐くと、膝の上で丸まっていた猫が漂ってきた異臭に鼻をひくつかせ、またかと言うように私を見た。

その顔もなんだか嫌味ったらしい気がする。我々は共にスネイプ教授の地下室通いをやめるべきかもしれない。

膝から追い立てたことで尚更不機嫌そうに尻尾を振り回す彼があちこちで爪とぎしているのを見て見ぬふりをしつつ片づけを進めていたら、後ろに置いていたランプの光が何かに遮られたように陰った。

続いて鍋を持ち上げた私の顔の横に宙ぶらりんでなんとも不服そうな猫がぬっと差し出される。


「 ここに獣を入れるなと言ったはずだが」


すみません、ともうほぼ反射的になってさえいる謝罪を口にしながら、鍋を差し出せばスネイプ教授は少々乱暴にその中に猫をストンと入れた。


「こんな時間に何をしている」


「 勉強」


もう愛想など期待してもいないだろうが木で鼻を括る様な私の物言いは多少彼の機嫌をそこねたようだ。

常に潜められている眉の間の渓谷は視線がゴミ箱と羊皮紙の上を行き来した後、さらに深められたようである。


「生ける屍の水薬か」


それには答えず、床に散らばった羊皮紙をかき集めた。しかし「そんなものどうするつもりだ」と今日の教授はやけに話を聞きたがる。

「別に特に何も」と言ったところでこの堅物が納得しようハズもなく、言い訳をこしらえるのも面倒で私は肩をすくめた。


「 眠れないんですよ。色々な睡眠薬も試してみたけど駄目なんです」


眠ろう眠ろうとすればするほど眠気は向こうに行ってしまう。もういいとあきらめるとウトウトもできない。2万匹も羊を数えたら誰だって嫌になる。

もう夢など随分前から見ていない。


「これなら効くだろうと思って」


「 だが下手をすれば永遠に寝たきりになることを知らないわけではあるまい」


教授の顔を見ずにもう一度肩をすくめてみせた。鍋からひらりと飛び降りた猫が足の間をくぐる。

“優しい”彼は意地悪なこの男から私を守ってくれようとしているのかもしれない。


「 ずいぶん安い命だ」


なんて、ヒドイ言いぐさだろうとは思わなかった。私はもっと罵られて当然のことをしている。

ただその嘲るような口調から彼はきっと全部知っているのだと思った。

この不眠のわけも。ずっと眠ったままだったと思えば最近になってやたらまとわりつく女子生徒の行動の理由も。この複雑かつ貴重な魔法薬の材料の出所も全て。


それでいてあえて黙殺しているのだ。


「――同感です」


どんなことをしても彼は帰らない、帰れない。彼が返ってこないのなら私が行くしかあるまい。

笑ったつもりが私の声は随分情けなく、耳障りだった。

足首にじゃれつくロシアンブルーの小さな頭をそっと優しく撫でてやる。


「 セドリック、」


彼の瞳の色にそっくりな毛を震わせて返事をするかのように猫が鳴いた。

対照的に教授は口元をピクリと痙攣させ、吸い込まれそうな深淵の瞳で私をねめつける。やはり本物は違う。

もっと、もっともっと軽蔑してくれればいいと思った。その長い指を私の首に巻きつけて、お前など生きる価値もないのだと冷たく突き放してほしい。


少し背伸びすれば届きそうなあのカサついた唇にキスをしたらいったいどんな心地がするだろうか、などと考えるようになれば、私はきっとあの人の元へ行けなくなってしまうのだから。



  戯言症





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