掌編

□主よ、人の望みの喜びよ
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おやおや、と思いながら私はグルリとそれの周りを一周した。

覚えている限りではこのようなものがスリザリンの談話室にあったという記憶はないのだけれど、もしかしたら誰も知らなかったってだけで、ずっとあったのかもしれない。

懐かしみ半分で革張りの椅子の上に腰をおろしてそっと指を置くと、真白な鍵盤はポーンと記憶に違わない優しげな音をたてた。



もうママが生きていたこと自体がものすごく昔なのだから私が彼女にピアノを習っていたのは大昔の話だ。

私がちっとも練習に身を入れないものだから、もう教えてやらないと言われることなんて耳にタコだった。なんたってその頃の私は大忙しだったのだ。

一人でも出られるようになった外は魅力的なものでいっぱいだったし、近所の友達はすごく楽しい子ばっかりだったし、家でママと退屈なおままごとなんかをしている暇はないと思っていた。

今思えば、彼女だって他の家の母親達みたいに外で私が遊ぶのを見ていたかったに違いない。

でも、私を生んでからというものずっと悪化と少しの回復を繰り返していた彼女にはそれが出来なかったのだ。


「 毎日起き上がっていたのが奇跡みたいなものだったんだよ、」


ママのお葬式が終わってからパパがそうぽつりと零していた。

彼女が入院した時からそれなりの覚悟をしていた私は彼のようにわんわん泣かなかったけれど、

ふと、ピアノの練習をサボって遊びまわってきた私を迎えるときのママの、あの何とも言えない、怒ったような寂しそうな顔を思い出してどうしようもなく悲しくなったのを覚えている。





“ロンドン橋落ちた、落ちた、”


久しぶりに弾くせいか右手と左手があまりにも上手く合わなくて笑えてきてしまった。

遊び歌なんだから楽しそうにね、と繰り返すママの声を思い出す。

すぐそこで聞こえた彼女の息遣いや、青白くほっそりとした指先までも鮮明に覚えているのに、私を教えている時の彼女の横顔だけはどうしても思い出すことが出来なかった。

懸命に鍵盤に齧りつくばかりだったからかもしれない。


「 ずいぶん不吉な曲を弾いているな、」


昔のことをとつとつ思い出していたせいもあるのだろう。ここがどこなのかすらいつの間にか忘れていたくらいだ。

驚いて振り返ったらいつの間に来たのか、スネイプ教授がすぐそばで私を頭のてっぺんから見下ろしていた。指を滑らせた左手が、不快な和音を叩く。

なんとなくばつが悪くなって、重ねた両手を膝の上におろした私はすみませんと、呟いてみる。

それを聞いているのか聞いていないのか教授は何も置かれていない譜面台の辺りを見つめたまま、すこぶる面倒くさそうに「寄付なのだ」と言った。


「昔はここにあったらしいが、古くなってから廃棄処分になっていた、」


なんでも、懐かしがってここへ来たホグワーツの卒業生でもある誰かの保護者がピアノのないことに気づいた途端すぐに買ってよこしたらしい。

いかにも裕福な人の多いスリザリンらしいエピソードだ。


「さっそく玩具になっているとはな、」


あからさまな嫌味にすみません、と私はもう一度苦笑しながら言った。


「 でも、いい音ですね」


それくらいはこんな俄かピアノ弾きにでもわかる。

きっとママが弾いたらもっと美しい音が出るのだろう。

私の家にあったのはこんな高級なグランドピアノとは程遠い小さなアップライトだったけれど、ママが引くと不思議と素敵な音に聞こえから。

私の大好きな音。どこに遊びに行ってもママのピアノの音が聞こえるとホッとした。

消えてしまいそうに線の薄い彼女が、ちゃんとそこにいるのだと安心できた。


中でも特に好きだったのは・・・・―――



「 バッハだ、」


さっきよりもっと驚いて私はスネイプ教授の顔を思わずまじまじと見つめてしまった。彼自身もつい口に出てしまったところが大きかったのか、少しハッとしたようになって眉間に皺を寄せている。

その後取ってつけたように「さっきのよりはマシだ」と鼻を鳴らしたので、音を外さないように細心の注意を払いながら私はまたゆっくりと鍵盤に触れた。


邪魔にならないようにか、端の方に寄せられている彼の手は記憶の中のママとはまるっきり違う、骨ばった長い指をしていた。






 主よ、人の望みの喜びよ






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