掌編

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―――彼から永久に奪われてしまったのは“ここに生きている”という感触だった。


とにかく今年の夏は暑い。


とはいえ耳を澄ませば今にも“ミーン”と聞こえてきそうな蝉の声はもちろんこのロンドンにはなく。

辺りは色とりどりの車で溢れ、彼らが涼しい思いをする代わりにまた私達が暑い思いをする、という悪循環を生み出し続けている。

陽炎を生み出すほど熱せられたコンクリートの道を歩くには私のサンダルは却って不向きだった。

隣では私の分までミネラルウォーターを飲み干してしまったシリウスが、毎年この時期が来るたびに『車の免許も取っておけばよかった』と繰り返す愚痴を、今年も唱えている。

そして私の恨みがましい表情に気づいたのか、肩をすくめた。


「 あー・・・・そちらの買い物袋お持ちしましょうか?」

「ご親切にどうも、」


さすが紳士の国の男性ですこと。

店から40フィートくらいはもうすでに歩いているというのに今更なんだ、とも思ったが大人しく食料品の詰まった粗雑な茶色い紙袋をシリウスに押し付けておいた。

というのも『いくらわれわれが無敵の“不死鳥の騎士団”だとしても、腹が減っては戦は出来ない』との命令のもと、本日私たちは調理隊長であるモリーの言いつけで久しぶりにマグルのショッピングモールまで足を延ばしているのだ。

――というのは実は建前だけで、いい加減モグラのような生活に耐えられなくなっているシリウスに“適度な運動”を与えることが私の本当の使命なのである。

もっとも出掛けに『ボールが必要かしら?』と尋ねた私の意をシリウス本人は解さなかったのだが。


空っぽのペットボトルを未練がましくベコベコ鳴らしながら、片手で袋を軽々と持ち上げたシリウスが上機嫌で口笛を吹くと前を歩いていた女性たちがチラチラと振り返った。

その目配せの意味するところが“あら、いい男”なのか“いつか話題になった殺人鬼にソックリ”なのか、私には分からない。

そのどちらにしろ“慣れている”彼は気づきもしないのか、あまり上手くない音程でレッド・ツェペリンの“Stair way to the heaven”の出だし部分をしつこく繰り返している。

身長差による歩幅の違いで当然私たちの足並みは合わない。

その背中をぼんやり眺めているといつだって私は、“学生の頃の私”に戻るのだ。

憧れと、恋心と、可笑しさと、悲しみと。何をしても楽しかった。彼は一度も私を気遣ったり振り返ったりはしてくれなかったけれど、それでも構わなかった。

無鉄砲で向こう見ずな彼のことを愛していた。


「 こうしてデートするのはどれくらいぶりかな。お前昔から照れ屋だったから一度も俺の隣をあるこうとしなかったもんな」


ジェームズが死んで、ピーターに裏切られて、シリウスは変わった。

勿論人間は変わるものだ。それは辛い経験をしたからだけではなくて、長い時間が過ぎて、彼も年を取って、ハリー達に会い、守るものだってできたからだ。


「もし、これが全部終わったらさ、指輪を買って、ドレスを買って、小さくていいから海の見える家を買って。一緒に暮らせるよな?」


シリウスは確かに大人になった。私が追い付くのをイライラしながら待って、やたらと怒ることももうない。

(―――いつからあなた、未来なんか信じるようになったのよ)

私のこの思いは、怒りは、見当違いだ。


「・・・・どこにもいかないで、」


「―――――え?」


私のあまりに小さな声は彼の口笛と町の喧騒にまぎれてかき消されてしまった。

訳もなく泣きたくなって上を見上げたら信号が赤に変わった。昔から待つことが嫌いなシリウスはあからさまに眉をしかめる。

ようやく追いついた私はその手持ち無沙汰な右手を取った。彼の腕は汗で冷えた私の手のひらに暖かい。


「 ねえ、向こう側に着いたら、キスして」


ただ「もしも」ばかりを繰り返す彼の唇をねじ伏せてやりたかった。


今にしか生きていなかった頃の彼を、探しだしてやりたかった。



 

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