穂積 泪

□最後の雨
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-最後の雨-



いつ雨が降ってもおかしくないような、梅雨らしい薄暗い色合いの夕方の雲を見上げ、櫻井が今日何度目かのため息をついた。


「そんな辛気くさい顔してたら、余計に天気が悪くなるわよ。」

「…はい。」


処理済みのファイルを片づけるため、立ちあがったついでに丸めた新聞でぺしっと叩いてみるも、櫻井の顔は窓の外の曇り空のように暗いままだ。


「ほら、明日の降水確率は40%だって言ってるんだから、天気予報を信じなさい。」


新聞を広げ、天気予報の欄を見せるものの、ちらりと新聞を見たその視線は決して晴れやかとは言えない。


「変な顔してると、そういう顔になるって言われなかった?」

「…むー。」

「あー、ほら。これじゃあ100年の恋も冷めるんじゃないかしらね。」


膨れた櫻井の頬を引っ張ろうとすると、手をバタバタさせながら抵抗してきた。


「いやー、やめて下さーい―!」

「うるさいわね。なら、いちいち天気ごときでため息なんてついてんじゃない!こっちの幸せが逃げるじゃない!」

「だって…!」

「日本の6月は梅雨の時期だなんて分かってたんでしょう?それでもこの時期に決めたのはアンタ達なんだから!」

「…はい。」

「…最後くらい笑顔でいなさい。」


いつものように髪を一撫ですると、少し寂しそうな顔で櫻井が微笑んでいた。

その表情が、俺の胸を切なくさせる。


「今日はみんなで集まれないけれど、休みが明けて落ちついたら盛大に追い出し会してあげるから。」

「はい…。でも、不安です。」

「櫻井なら大丈夫よ。今まで警備部・刑事部・交通部・生活安全部、警視庁内のありとあらゆる部署のお手伝いをしてきたんだし、ウチでもすぐ慣れたじゃない。もっと自分に自信を持ちなさい。」

「…でも、今まではサポートばかりで、皆さんに助けてもらうことの方が多かったので…。」

「そんなことないわ。アンタのサポートがあったからこそ、捜査が上手くいったこともあるんだから。自分の仕事をして、チームに貢献する。これって大事なことでしょう?」

「はい…。」


こうやって落ち込む櫻井に、何度声を掛けただろう。

射撃訓練が苦手で捜査室で教えたこともあった。

手柄を立てたくて突っ走る姿を、みんなでそっと見守ったことなんかもあったな。


悩んで、相談を受けて、考えて、考えさせて、行動をして。

少しずつ刑事として成長していく姿が見られて、本当に交通課からスカウトして良かったと思った。

育てることが出来て、良かったと思った。


それも、今日が最後だ。


「背筋を伸ばして、胸を張りなさい。…このワタシが育てたんだから、大丈夫よ。」

「…室長。」

「良く頑張ったわね、…今までありがとう。」

「……室長ッ!」


堪りかねたように、櫻井が俺の胸にしがみついてきた。

小さな肩が、背中が、小刻みに震えている。


「櫻井…。」

「私…やっぱり、捜査…室を離れた…く…ッ」


震えるくちびるが『最後の願い』を紡ぐのを人差し指で制す。


「それ以上は言うな。」

「室長…。」

「二人で決めたんだろう?」

「……。」

「アイツの希望でもあるんだろう?」


髪を撫でた手の下で、微かに櫻井が身じろぐ。


「危険な職場に大事な人をいさせたくない…、至極まっとうな意見だ。」

「でも…。」


大きな瞳に涙を溜めながら、それでも必死に、縋るように見上げる櫻井と視線を合わせない様に、

俺は初めて櫻井を抱きしめた。


ずっとこうしたかった。

抱きしめて、涙を拭って、安心させてやりたかった。


…愛したかった。


「ワタシも…大事な娘に、これ以上危険な仕事をさせるわけにいかないわ。」

「……ッ!」


小さな身体を壊さないよう少しだけ力を入れて抱くと、櫻井が腕の中で嗚咽を漏らした。


「…でもアンタはどこへ行ってもワタシの娘よ。…それを忘れないで。」


不安な波にさらわれないように髪と背中を撫で、宝物のように抱きしめ続けた。

ただ、この時間が永遠に止まってしまえばいいと願いながら。







「…すみませんでした。わがまま言って。」

「もう大丈夫?」

「ハイ。」


落ち着いてきたのか櫻井が小さく微笑みを見せた。

好きだった笑顔が見れて嬉しくもあり、離れてしまった温かさに寂しさを感じたりもする。


「…室長ってやっぱりお父さんみたいです。」

「あら、そう?」

「ハイ。父もそう言ってくれました。『誰の所へ嫁に行っても、お前は俺の娘だ』って。」

「…そうね。」


俺は『上司』で『職場のお父さん』で。

それ以上にも、それ以下にもなれなかった。


想いを言葉に出来なくて。

言葉でお前を繋げられなくて。


明日のお前の隣に立てる男になれなかった。






「さぁ、今日はみんな直帰だし、私達も帰りましょうか。」


帰り支度をして櫻井と一緒に警視庁を出ると、しとしとと雨が降っていた。

日が落ちた空はどんよりと暗く、重そうな雲が立ち込めている。


伝染したかのようにため息を一つついて傘を開くと、隣で櫻井がカバンの中から折り畳み傘を出そうと苦戦していた。


「何やってんのよ。ホラ、駅まで入れてあげるから早く来なさい。」

「えっ、でも…。」

「この傘は大きいし、明日は早いんでしょ?」

「…ハイ。」

「じゃあ、文句言わない。」


『お邪魔します。』と小さく肩をすぼめながら傘に入ってきた櫻井と、肩を並べて地下鉄の駅まで向かう。

小柄な櫻井に合わせて歩幅を狭め、雨がかからないように傘を傾けて。


バージンロードを歩く父娘のように、最後を時を名残惜しむかのように、俺達の歩くスピードはどんどん緩やかになっていった。


「…いで下さい。」

「ん?」


隣で黙りこくっていた櫻井が呟く。


「…私のこと、忘れないで下さいね。」


小さな子供のようにジャケットの裾を掴みながら、再び悲しそうな顔で俺を見上げる櫻井の髪を『クシャッ』っと撫でる。

そんな顔は、お前に似合わない。


「バーカ。」

「えぇ!」

「アンタみたいに手のかかるアホの子なんて、忘れたくても忘れられるわけないじゃない。それに、まだそんなにもうろくして無いわよ。」


いつものように身長の差を生かして上からふんぞり返って見下ろすと、悲しげだった顔が『ぷうっ』っと膨らんだ。


「アホだけじゃなくて、バカって言われた…。」

「変な顔―。それに眉間にシワが寄ってるわよ。」

「やーだー!」


必死に額のシワを伸ばそうとする姿に笑っていると、見慣れたシルエットの男が静かに近づいてくる。


「…ほら、お迎えが来たわよ。」


俯いてゴシゴシと眉間を擦る櫻井に声を掛け、近づいてきた男の方へと促すように背中をそっと押すと。


「あっ、明智さん!直帰じゃなかったんですか!!」


驚きながらも、今日一番の笑顔を見せた櫻井が俺の傘から飛び出していく。


「あっ!」

「きゃあっ!」

「危なッ…!」


濡れた地面に足を滑らせ転びそうになる櫻井に向かって、とっさに手を伸ばすが。


「翼、大丈夫か?」

「…ごめんなさい、まーくん。」


抱きとめたのは、俺じゃない。

俺の腕じゃない。


「…こんなことになると思ったから送ったけど、もう心配はいらないわね。」


行き場の無くなった右手をポケットに入れ、二人から逃げるように背中を向けると。


「室長!」


背中に声が掛かる。

ゆっくりと振り向くと、拳をギュッと握りしめながら立ちつくす櫻井と、見守るように傘を差しかけて櫻井の肩を抱く明智がいた。


「室長…、今まで、ありがとうございました。」


揃って頭を下げる姿を見ていられなくて、片手を上げて返事だけすると、俺は今度こそ振り返らずに歩きだした。






人気のなくなった日比谷公園を横切りながら、さっきまで隣にいた櫻井を思い出すと自分の傘が妙に広く感じる。

『パチンッ』っと閉じて空を見上げれば、雨粒が哀しみのように街を銀色に染めていた。


「忘れないで下さい…か。」


忘れるわけがない。

本気で忘れられるわけがない。


そんな程度の想いなら、涙なんて出るわけがない。


「……櫻井。」


頬を伝う雫を拭えないまま、俺はこの雨が今夜だけは止まないでいてくれることを願った…。





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