緋弾のアリア-諧調の担い手-

□第二話
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―――閉ざされていた意識が、引き戻されて行く。


まるで点と点が繋がる様に、此処に至るまでの事柄は曖昧。
白昼夢を見るかの様に、実がある様でその実体は、まるで存在しない。

だがそれ故に、“変わった”と一際、明瞭と理解出来た。
……“自分”が“最後”に見た光景は、総てを飲み込む程に大きな大きな、世界に開いた穴。

気が付けば変わったと。世界が反転したかの様な、そんな意識があった。
裏と表と表と裏が引っくり返る様な感覚。感触と言っていい程に、それをありありと感じる事が出来た。

最初に知覚したのは、“私”という自己、その意識と存在であった。
この時点の、まだ生まれもしていない赤子がはっきりとした自我を持つ事は異常であり、異端であろう。

普通じゃない。
……そうだ、普通ではない。自分は普通ではない。文字通りの異端児だ。

自身は神という存在によって、輪廻転生という輪より外れた魂。
ニューゲームという形で、記憶を引き継いで、新たな生を獲得した存在。

“自分”という存在は一度死んで、“私”という来世へと移ったのだ。
そうした自覚と、記憶が魂に色濃く刻まれている。


今此処にいるのは、前世での自分である“日朔真綾”という存在ではない。
今此処に存在するのは、未だ体を成す名前もない私という存在だ。


目を見開く事は出来ない。身体を動かす事は出来ない。それでも。
それでも自ずと解る、理解出来る。感じ取れる。その常闇の中で。
母胎という鳥籠の中は、赤子である私を祝福するかの様に柔らかく、そして優しく包み込む。

母親の抱擁をその身、一身に感じ取る。
羊水に浸かりながら、私はそう心の中で呟く。

そうして不意に、過去へと意識を向ける。

……つまらなかった。ああ、つまらなかっただろう。
今になって自身の前世を、日朔真綾の人生を振り返る。つまらなかった人生だったと、そう思う。

もしも、他者が自分の齢20にも満たない人生を覗き見る事があるならば、十人十色でつまらないと答えるだろう。

それは私自身も理解している。我ながら、人としては何処かが欠落していた。ズレていた。
長い目で見ても、それはありきたりな、何処にでも転がっていそうな色の無い物語。

……それでも、ほんの僅かにも、私にも楽しいと思う瞬間は確かに存在したのだ。
真っ当な人生を送っている者ならば、気にも留めない様な、道端の石ころ程度の記憶。

それでも私にとって。
“彼”と駆け抜けた日々。空虚な人生を送っていた私にとってそれは、圧倒的な現実感であった。
そしてそこには、確かな色があった。

彼と過ごした刹那こそが、私の唯一の黄昏。

もし、もしもだ。
私の様に二度目の与えられるのならば、人はどの様に生を歩むだろうか?

自分の前世の記憶を総動員して、自身の世界を変えるべく革新に至るか。
自身の身体を鍛え上げ、前世とは違った道を踏破するか。
更には知識を蓄える為に、貪欲に知識を貪るか。

十人十色、百人百色の道がある事だろう。
斯く言う私も、この期に前世とは違う、新たな道を模索したいとは思ってはいる。

仮に姿や心持ちが変わったとして、自身の本質。
その魂を構成する渇望は、未来永劫に変革する事はないだろう。

それは絶対にして、不可侵だ。


―――ああ、漸くですか。


終わりが、そして始まりが近づいて来ている事を私は察知する。

出来上がった身体が、母親から栄養を受け続けている事を理解する。
けれど、それももう終わりだろう。もうこの優しい鳥籠に閉じられている時間は終わりを告げる。

今日この日より、新たに始まるのだ。
私という未だ名も無い一人の人間が。その未踏の第二の人生が。未知が。

零にして、空っぽにして、無色にて、新たに一歩を踏み出そう。






1







「……そんな事も、ありましたね」


初冬を迎えるまだ少し手前、秋の深まった季節。

それでも、早朝と言える時間帯は初冬の様に肌寒い。
睡魔に襲われる意識が、その冷たさに強引に覚醒させられる。
ネットゲームに没頭して、睡眠時間は大幅に削られ、眠れた時間は僅かに四時間程だ。

自宅にて。
その勝手知ったるキッチンにて、エプロンを身に付けて立つ黒髪の少女が欠伸を噛み殺して、一人そう呟く。

今朝見た夢の残滓。
自身の出生、そして生い立ちを振り返る様に思考を過去へと向ける。

普通は記憶には残らない、母胎での優しい記憶。
それでも少女はそれを、明瞭な記憶として保持していた。

……懐かしい。

そう心の中で呟く。この世界に生れ落ちた日。
それは“真綾”と呼ばれた自分が死んで、“私”として新たに新生した日だ。

それでも。
前世の私が死んだとしても、その魂に刻み付けられた想いは途絶える事はない。

現在の日付は2022年11月2日。
私が生まれてから既に、15年の月日が流れていた。
前世の生誕よりも、十年以上も後にこの世界に私は生まれた。

―――今日が、今世にとっての本当の始まりの日となる。

そして、全ての終わりの日であるという事も理解している。
キッチンから見えるリビングのテレビでは、社会現象ともなり得る程の勢いと支持を得ているネトゲの特番が組まれていた。


「さて、始めましょうか」


テレビから視線を反らして、時計を見やる。
現在の時間は、午前6時10分前。

母親の仕事のお弁当と、妹が休日の部活動で家を出る為に、お弁当の準備と並行で朝ご飯の調理を始める。

そうして手馴れた手付きで調理を開始し、徐々に時間が経つにつれて数々のメニューが出来上がって行く。
その料理の腕前は、一手に家事を任されている事が頷ける程の水準の高さである。

鮭の切り身、卵焼き、自家製の漬物、炊きたての白米、鍋には豆腐とわかめの味噌汁。

その出来栄えに、少女は我ながら関心する様に頷く。
この家では、食事は出来るだけ皆で摂る事を義務付けている。やはり、食事は皆で楽しく囲いたい。

そんな思考に、少女は内心で苦笑する。

……前世では、こんな風に考えた事はありませんでしたね。

今朝見た夢のせいか、今日は無性に前世の事を思い出す。
きっと真綾と呼ばれた頃、その私を知る人間が見ればきっと誰だか解らない事だろう。
それ程までに、自身でも変革したという自覚がある。

けれど、それでも。
自身の内側を構成する、魂の渇望は変わる事はない。


「……良い匂いねぇ」


食欲をそそる匂いがキッチンからリビングへと流れ出す。
そしてそれとは逆に、一人の人間の声がキッチンへと流れ込んで来る。

女性の声。それは私にとっても聞き馴染みのある、存在の声だ。
そうして、声の主へと私は視線を向ける。そこにいたのは、自身の母親の姿であった。

“桐ヶ谷翠”。
もう直ぐ四十を迎える齢であるが、それよりも遥かに若い女性に見える。
それ故に、私にとっては言い得て妙であるが、姉という関係が当て嵌まる。


「おはよう、お母さん」

「はい、おはよう“一乃”。…何時も、朝ご飯の準備をまかせっきりでゴメンなさいね」

「ううん、私が好きでやっている事だから」


“桐ヶ谷一乃”。それが私の今世での魂に刻まれた記号であった。
初めてその名前を呼ばれた時、長年その名で呼ばれ続けていたかの様に、胸の中へと浸透していった。


「スグは起きてた?」

「ええ。今着替えていた所だから、もう直ぐ降りてくると思うわ。…和人は、まだ起きていなかったけれど」

「そう、朝食が冷めても困るし、起こしに行ってくるわ」


そう告げ、エプロンを脱ぎ捨てて、弟達の自室がある二階へと上がる。
そうして、部屋の扉をコンコン…とノックするが、返って来る返答はない。


「…おじゃまします、っと」


そうして、扉を開けて部屋の中へと侵入する。
部屋の中はカーテンで遮られて薄暗いが、仄かに部屋の中が発光している。


「…もう、また和人ったらパソコンを付けっぱなしにして」


何時も眠る時はパソコンは切る様に言い付けているのだが、一向に直る事はない。
また、早朝までネトゲに勤しんでいたのだろう。何度身体を揺すっても、起きる気配はない。

健やかに寝息を立てて眠る黒髪の少年の枕元。
そこには、サンタクロースからのプレゼントの様に、一つのヘッドギアが置かれている。


―――ナーブギア


そう呼ばれる代物だ。
そのコンパクトな見た目に反して、最先端技術の叡智と言っても過言ではない。

直接神経結合環境システム――NERv Direct Linkage Environment System、頭文字を取ってNERDLES。

それは自身の神経を直接システムに繋げて、神経の動きを察知したシステムが、仮想空間の中で
現実と同じ動きを再現する。
つまりは、ヴァーチャルリアリティの中に自分自身を投影する事だ。

それが始めて世に出たのは2006年の事であった。私が生まれる一年前の出来後。
その時点で、前世の科学技術から大きく剥離しており、それに追随する様に、脳や神経に関する技術も大きく進歩していた。

前世では理数系を専攻に学んでいた為に、その技術発展の凄さが理解出来た。

当初出たNERDLESは業務用、冷蔵庫サイズのものであった。
そして大手のゲームメーカーがリリースしたNERDLESで動くゲームは1プレイ3000円で、全国五箇所の設置店のみでの稼動となったが、それでも長蛇の列が絶えなかった。

斯く言う私も、弟の同伴者として少ないお小遣いで、“慣らし”程度のつもりで遊びに行った覚えがある。


「……うん」


そんな思考の海に浸っていると、不意にその声に現実に引き戻される。
そして私は追い討ちをかける様にして、揺すり掛ける。


「起きて下さい、和人」

「……うん…っ…姉さん」

「もう、漸く起きた?朝食の準備が出来てるから早く起きて?」

「は〜い」


私は朧気ながらに意識を覚醒させた弟の姿に、満足げに頷く。
だが、また再びベッドに潜り込み、眠りに就こうとする。


「全く、“今日”は大切な日でしょう?サービス開始に間に合わなくても知らないからね?」


その言葉に、まるで耳元で目覚ましが鳴ったかの様に、意識を急速に解凍する和人。
その様子に、私は思わず苦笑する。


「おはよう、姉さん!」

「はい、おはようございます」


そうして慌しくも、桐ヶ谷家の一日が始まる。






2






朝食を皆で摂り終え、母親と妹を見送った私は手早く家内の掃除を済ます。
そして弟は一人で部屋に閉じ篭り、遠足前の子供の様にわくわく…としていた。

時計を見ると、時刻はもう間もなく正午を迎えようとしていた。
それを確認して、私は部屋へと向かう。

そうして手に取るのは、先程弟の部屋で見たヘッドギア。
ナーブギアを頭からすっぽりと被る。

ベッドに寝そべりながら、時計が正午を示すまでの時間が酷く長く感じられた。
……ここから、始まるのだ。私の今世の、本当の始まりが。


「リンク・スタート!」


私はそう言葉にする。
その命令信号を受信して、ギアは正常に機能を果たす。

そうして、そこで私の現実世界での意識は途切れた。


これから始まるのは、先の見えないデスゲーム。
ゲームであっても、ここから先は遊びではないのだ。

それは熟知している、けれど。
私には、戦う以外に選択肢はないのだ。


2022年11月2日。
その日、ソードアート・オンラインは正式サービスを開始した。


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