橙の巻物
□返事をくれる人
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「…はぁ…」
アラシヤマは疲れきって、溜め息をつきながら廊下を歩いていた。
午後9時。
定時より4時間も過ぎているが、部屋に帰るところだった。
…以前に比べれば、随分マシになった方かもしれない。
部屋にも戻らずに、部署内のソファーで一日2〜3時間の仮眠を取るだけだった、2ヶ月程前に比べれば。
食事もろくに取らずに、集中できなくなりつつある脳に鞭打って朦朧としていた、あの日々に比べれば。
自分の体も心も省みず、ただボロボロになっていくのをわかっていながら、無視していたあの毎日に比べれば。
誰かが自分のことを見てくれている…。
それだけでその人のことはもちろん、自分のことも大切にできるような気がした。
大切にしたいと思っているし、感謝もしている。
だがそれを素直に出すことが、なかなかできないでいた。
それでもあの男は、気を悪くする様子もなく、いつも自分のことを気遣ってくれていた。
仕事が終わったら、自分を待っているあの男の部屋へ行く。
これは暗黙の了解になっていた。
部屋の主がいなくても、あの部屋にいるだけで心が安らいだ。
自分は一人ではないと実感できて…。
「おっ、アラシヤマ!いいとこで会ったべ〜!」
コージのことを考えていたアラシヤマは、廊下の向こうから来るミヤギに気付かなかった。
「な、なんどす?ミヤギはん…」
いつもなら『暗い』だの『鬱陶しい』だの言って近付いても来ないミヤギが、アラシヤマの腕を引いて並んで歩くものだから、アラシヤマはすっかり戸惑ってしまった。
しかし、そんなことを気にする様子もなく、ミヤギは歩みを進めていく。
着いた場所は…ミヤギが担当する部署だった。
「…一体なんどす…?」
誰もいない部署。
蛍光灯の微かな音が、静寂を物語っている。
ミヤギは自分のデスクまで行き、積まれた書類を軽く叩きながら言った。
「これなぁ…データを全部パソコンに入力させねばなんねぇんだべ。んだども部下がちょっとミスしちまってなぁ…悪いけんど、書類のミス直しながら入力さしてってくんろ。資料はそっちのファイルに入ってっから」
帰り支度をしながら、ミヤギは普通に話していた。
「大したミスじゃねぇから、すぐ終わると思うべ。オラ、これからトットリと約束あるだで…後は頼んだべ、アラシヤマ。このお礼は必ずすっから」
爽やかに軽く手を振って、ミヤギは退室した。
「…な…!?」
まだ引き受けるとも何とも言っていないのに、一人取り残されてしまった。
自分には関係ない。
帰ってしまってもいいはずだ。
…しかし、アラシヤマは帰らなかった。
『根暗』だの『陰気』だの言われているわりに、頼ってくる人間が多いのは、お人好しすぎる正義感の強さのせいだということに、本人は気付いていない…。