読み物
□ひたぎナップ
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受験もあと数週間と迫りつつある頃合。
約半年強もの間、大半を勉強目的として利用していた為か、自室よりも集中できるようになった民倉荘201号室で僕は今勉強をしている。
ちゃぶ台を挟んで向かい側には、綺麗な姿勢で読書をする戦場ヶ原。
最近は勉強も一通りこなし終え、分からないところが出てきたら戦場ヶ原に教えて貰うという形で追い込みをかけている。
現在羽川は世界一周旅行の下見でウクライナだかにいるらしい。
帰国しても僕に勉強の指南などする暇無くすぐ廻国してしまうので、ここ一ヶ月は毎日戦場ヶ原と勉強。これも集中に拍車を掛けている。
だからか、戦場ヶ原に声をかけられるまで教本にむかっていた。
「ねえこよこよ、そろそろお腹空いたんじゃない?」
気付けば時刻は八時と勉強を始めてから三時間が経過、首を曲げればポキリと軽快な音が鳴った。
あまりにも集中していたからか、吸血鬼性もあるが空腹は感じない。しかし勉強だって詰め込みすぎても仕方がないか。
「そうだな、そろそろ」
言い切る前に、彼女に嬉々とした表情が浮かぶ
「頂くかな」
ふにゃりと満足そうに微笑むとキッチンに向かい鍋に火を着け始めた。
「ふふ、今日はカレーを作ったのよ。今暖めるからちょっと待っててね」
静かだった腹の虫が、カレーという単語を聞いたとたんに騒ぎ出す。
「楽しみだなあ」
鼻歌混じりに用意する上機嫌な戦場ヶ原をぼんやり眺めること数分
食器棚から深皿を取り出し炊飯器を開いた戦場ヶ原の動きが固まった
「?、どうした?」
「こ、こよこよ…どうしよう」
あまりにも、財布を落としたのに気付いた、みたいな絶望的表情に一変していたので僕にも緊張が走る。
「ご飯が、炊けてない…」
「……えっ、と」
「ごめんね、こよこよ…」
…ごめん、もっと重要な事かと思った、というのは心の中に止めて置くとして。つい数ヵ月前の戦場ヶ原と同一人物とは思えないミスとリアクションに戸惑ったが、思わず笑みが溢れてしまった。
「こよこよ…?」
「ああ、悪い悪い。気にすんなよ、炊けるまで待ってるから」
でもお腹空いてるよね本当にごめんね、とさんざん謝りつつ準備する戦場ヶ原。…戦場ヶ原だ。
さて炊き上がるまでの間再び僕は勉強を始め、戦場ヶ原は読書を始めたようだった。
ピロピロと、気軽な音楽が流れ視線を向けると炊飯器がご飯を炊けたことを報せていた。
さてと、鉛筆を置き準備を手伝おうと戦場ヶ原に声をかける。
「ヶ原さ、」
ん、までが発声できなかった。
先程まで読書をしていたのだと思ったのだが、戦場ヶ原が持っていた本は上下逆さで、読み切るのに大して時間もかからないであろう海外の写真集だった。
そして、目を閉じ浅い呼吸を繰り返す。うたた寝をしていた。
戦場ヶ原と出会って関わりを持つようになって、割かし長い時間を過ごして来た。その濃い時間の中でも初めての出来事・状況。すっかり丸くなった性格や表情を加味しなくとも、この『素』の戦場ヶ原を見ていると自分の中に柔らかい気持ちが生まれるのを感じ頬が緩んだ。
かくんと数回首が船を漕いだところで戦場ヶ原の目蓋が開かれる。
「おはよ、ヶ原さん」
「ん…こよ、こよ…」
僕が用意するからそのまま座ってて良いと言おうとしたところで「、あ!」と弾かれたように立ち上がり、炊けたね、なんて笑う。
「私寝ちゃってたんだね、本読んでた筈なのになあ」
「そっか。ちゃんと休めよ。何か手伝おうか?」
「こよこよも、根詰め過ぎないでね。大丈夫よ、はい、お待ちどうさま!」
「おお!、」
「今日はね、隠し味を入れたのよ。どうかしらね」
ちゃぶ台に置かれたカレーは随分と薄い、黄色のルーだった。
「ヶ原さん、参考までになんだけれど、隠し味って何入れたんだ?」
「ヨーグルトと林檎と蜂蜜よ。羽川さんに教えて貰ったの」
その三つを一度に入れたのか。スプーンで掬うと、じゃがいもかと思われたものは固形の林檎だった。
口に運ぶ途中に香るプーさんの匂い。
目の前で、僕が口に運ぶのを今か今かと待ち構える戦場ヶ原の期待の眼差しのお陰でおかわりまで頂いたのは言うまでもない。
《君の暖かい、喜ぶ顏が見たいだけ》
<あとがたり→>