二次小説部屋

□遠い雷鳴の中(近畿)
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 目覚めた時僕は生きていることの不思議さを感じた。体中が痛み、しびれ、指の一本も自由に動かせなかったからだ。明るい日が差し込んでいて、目を閉じていてもその眩しさが壁の白さを伝えてくれている。ゆっくりと目を開けると、開け放たれた窓の外には濃い緑が広がっていた。見たこともないようなどこまでもつづく森に目を奪われる。
 陽光、鳥の声、体に感じる空気の暖かさ・・・。そのどれもが生命の素晴らしさを僕に語ってくれているのに、僕には嬉しさはなかった。あの場にいた誰が連絡して病院に運んでくれたのだろうか、死んでしまってもいいと思った僕を。
 足音が近づいてきて、誰かが僕の病室のドアを開ける。
「誠くん、暑くなってきたからブラインド下ろそうか? 今日もとってもいい天・・・」
 入ってきたのは看護婦らしかった。目を開けている僕を見ると、驚いたようにその場に立ち竦んだ。小さく上げた声を隠すように口元に手を当てると、ゆっくりとベッドに近づいてくる。その目に涙が浮かんでいるのを僕は不思議な思いで見た。もちろん知らない顔だったから。
「・・・」
 話そうとしたが声がでない。体も相変わらずまったく動かなかった。もしかしたらそういう体になってしまったのだろうか。彼女は僕の目が焦点を結んでいることを確かめるように顔を近づけると、涙を流しながら胸の前で手を組んだ。
「感謝します、マリアさま」
「・・・?」
「誠くん、目が覚めたのね?」
 それから優しい声で僕に語りかける。頷くかわりに僕は瞬きをした。マリアさまと云うことは彼女はきっとキリスト教徒なのだろうけれど、それがどう関係があるのだろうか。
「気分はどう? 悪くない?」
 体が動かないだけで頭はすっきりとしていた。僕はまた彼女を見つめたまま瞬きをする。それが肯定のサインだと彼女はすぐにわかってくれた。
「ご家族のみなさんもずっと待っていらっしゃったから、どんなに喜ばれることかしら・・・。今ドクターを呼んでくるから待っててね」
 ずっとと云うことはあれから病院にずっといてくれたのだろうか。何日がたっているのか、部屋にはベッド以外何もなくてわからない。微笑みながら彼女が小走りに病室を出て行くと、また静かさが戻ってきた。あまりにも静かで、何か違和感がある。僕の住む街はこんなに緑多いところだっただろうか。風の音以外他の病室からも何も聞こえてこないなんて、救急にはありえないのではないか。
 もしかしたらもっと日が経っているのかもしれない。僕は何日も目覚めなかったのかも。しかし現実はその想像を越えていた。医者が告げた真実に僕は驚愕せざるを得なかった。あれから、8年の歳月が流れていたのだ。

 屋上から転落した僕は命は取り留めたものの目覚めなかったのだ。死んだも同然だと医師に告げられたらしい。その云葉通り何ヶ月たっても意識を取り戻さなかった僕を、義母が今の病院に転院させたのだった。静かだったのはそこが人里離れた場所だったからだ。
 検査で体には何の障害も残っていないことがわかった。動かないのは長い間使っていなかったからで、ある程度まではリハビリで治ると説明を受けた。その云葉通り声はすぐに出るようになった。
 頼んで鏡を見せてもらうと、そこには見知らぬ青年が僕を見返していた。肌の色が白いのは日に当たっていなかったからだろうが、顔の輪郭が違う。筋肉が発達していないのでぼんやりとしているが、もう子供の顔ではなかった。当たり前だ、知らない間に僕は23才になっていたのだから。
 翌日になって家族が見舞いに来てくれた。久しぶりに見る父は驚くほど年をとって痩せていて、僕を見ると臆面もなく大声で泣き出した。義母も涙を流して僕を抱きしめてくれた。
「よかった、ほんまによかった・・・」
 それ以外云葉のない父の本当の気持ちをこの時まだ僕は知らなかったので、少し大げさなのじゃないかと冗談を云った。初め目覚めた時には憂鬱な気持ちが抜けていなかった僕も、8年たっていると聞かされた時から考えが変わってきた。もう、誰も覚えていないかもしれない。地獄のようなあの日々のことを。僕はこのまま新しい人生をやり直せるのではないか・・・。
「体、大丈夫なんだってね? 本当にどこも痛くないの?」
「うん、リハビリが1年くらいかかるって云われたけど、ほらもう手首とかだったら動くんだ。看護婦さんが毎日マッサージしてくれてたんだって」
「信じられないよ、本当にまた誠くんの声聞けるなんて・・・」
「また泣く、それじゃ嬉しくないみたいだよ」
「そ、そう? じゃ笑うね、でも涙が出ちゃうんだもん」
 僕も笑うと、ふと廊下から部屋の中を覗いている小さな男の子に目をやった。二人と一緒に来たのだろうが、彼らはすっかり忘れてしまっているのだ。それが誰なのか、僕には何となくわかった。
「ねえ、紹介してくれないの? 僕初めてだよ」
 義母が驚いたように僕の顔を見ると、扉を振り返った。男の子は隠れるようにもじもじしている。
「ごめんね、こっちいらっしゃい」
 彼は僕の顔と義母を見ると、走って近寄ってきた。床に座ったままの父の隣に立つ。
「学や。こいつはお前に何度も会いに来とるから知っとるけどな。小学校の3年や」
「僕の弟・・・」
「そうよ、いきなり大きくて吃驚しちゃっただろうけど。学にはお兄ちゃんのことずっと話してたの」
「お兄ちゃんて、何か変な感じだね」
 あの時お腹の中にいた子供が今僕を不思議そうに見上げている。不思議なのは僕の方なのにと思うと、実感できない長い年月がそのままそこにある錯覚に捕らわれた。
「まあ、すぐには慣れんかもしれんけど、兄弟やねんから大丈夫やろ」
 小さい頃の僕に似ているような気がする。まだ、人生に何の不安も迷いもなかった頃の僕と。
 面会の時間は僕の体調が回復するまで制限されていた。家族は名残を惜しみながら立ち上がる。
「また来るね、誠くん」
「大丈夫だよ、遠いし、それに先生がリハビリだけだから家の近くに転院してもいいって云ってるんだよ」
「そうか、でもお前、さっきそんな話なかったぞ」
「うん、まだまだだから。体力が回復しないと駄目だからあと何ヶ月か先になるって」
 腕だけは何とか自由を取り戻していたが、長い間体重のかかっていなかった足に筋肉を取り戻させるのはなみ大抵の努力では無理だろう。車椅子の生活になる可能性もあると云われていたが、せっかく喜んでくれている家族にそれを話すのは気が引けた。
「やっぱり毎週来るね、だってそんな先なんじゃ・・・。仕事休めないから毎日は無理だけど」
 親子3人の生活にそうたくさんのお金がいるとも思えない。それはきっと僕の入院費を払うためのものなのだろう。申し訳ないと思ったが、僕の生を諦めないでいてくれたことが嬉しかった。
「うん、ありがとう」
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