書庫(短編)
□水面下の才能
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「わ…っ!……おまぁぁ〜〜!」
いつもの如く変な絶叫が響いて、聖徳太子は湖に落ちた。
慌てて、と言ってもそれほどでもなく軽く駆け寄る程度に小野妹子は湖に駆け寄った。
湖の水は透明度が少し高く、しかし深いのか底までは見えない。
水が日の光を反射して光るのを見つめながら妹子は突っ立ったまま動こうとしない。
いくら上司が落ちたからといってこんな寒い中わざわざ水に使ってまであのアホを助けたくないと言うのが本音だ。
(浮いて来ないな…。浮いてきたらそこらの枝で引き寄せるまではするんだけど…)
落ちた間抜けな上司が聞いたら憤慨しそうなことを平気で妹子は思う。
本人がいたら言っているのだろうが、生憎ここには件の上司はいない。
(アホはちょっと位死んだ方が直るって言うし)
何を思ったのか妹子は無情にもその場から離れようとした。
《仮にも上司だよ?ひっどいなぁ》
不意に湖から面白がる様な、怒っている様な、呆れている様な、哀れんでいる様な、それらが混ざり合った声が聞こえた。
反射的に振り返ると、湖の水面に大陸風の――やけに軽装だが、仕立ては良さ気な――服装をした男がいつの間にやら立っていた。
男は嘲るような笑みを浮かべる。
その涼しげな眼が妹子を見下しその場に縫い止める。
先程湖を見たときにはいなかった。
水面に立っているなんて異常だ、怪しい。
普通の人ではないと察し、妹子は身構え睥睨する。
「おっと、そんな恐い顔しなくてもいいんじゃないの?――君にいい提案してあげる」
優しげだが、どこか冷酷な響きの言葉が発された。
男の言う提案と言う言葉に眉をひそめると、男は「分かんない?仕方ないなぁ」と呟くと腕を払った。
透明な水面が割れ、二つの影が現れる。
それは、先程落ちたはずの間抜けな上司、聖徳太子で、もう一つの影も聖徳太子そのものだった。
どちらの太子も静かに瞳を閉じている。
男が自身の左に座る太子を指して説明する。
「こっちの太子は、普通のアホで間抜けでカレーが好きで極々稀にまともな事を言う太子」
それで、と今度はもう一人の太子を指した。
「こっちは真面目だけど絶対妥協しないし一人で色々抱え込んじゃう」
楽しそうに言ってひとしきり笑うと、男は妹子の方に向き直ってとんでもないことを言い放った。
「どっちの太子がいい?なんて言っても、すぐ決められないよね。どっちも同じ太子だし」
男の紅い瞳が二人の太子に向けられる。
「…という訳で真面目な太子を1週間お試しさせてあげるよ」
再び男が腕を払うと今度は男と左の方の太子が徐々に消えていった。
消える前に妹子は男の黒髪と赤の瞳が揺れるのを見た。
その表情は、酷く優しげだった。
「さて、と。帰るか、妹子」
残った方の太子がぎこちなく笑って歩き出した。