短編
□雨に交わす
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今日の昼食後は、いつもよりも城内に残っている人が多かった。
天候が思わしくなく、どうやら午後から一雨来るらしい。
野外訓練が控えられたせいか、そのまま城内待機をしている騎士が多いようであった。
つまりは食堂、そもそもの兵士詰め所、いくつかある談話室、その他諸々の共同スペースの人口密度がそれなりに高い。
中には普段城内で見かけないような騎士の姿もある。
(うーん…)
なんとなく、落ち着かない。
自分が騎士の身ではないからか、邪険にされる筈もないとわかっていてもすんなりと騎士の集団の中に入って行けなかった。
数人ならともかく、十数人という単位なのだ。多少居づらいのも当然かもしれない。
しかし自室に戻る気にもなれない。
昼食を食べたばかりだというのに、することがないからといって快適な自室に戻ってしまったら…間違いなくうっかり寝る。それは避けたい。
ならば、どうするべきか。
人がおらず、自室でもなく、なおかつくつろいでも怒られなさそうな場所とは。
(謁見の間の控室、とか?)
普段から人が寄りつくような場所ではないし、今日は来客の予定があるとも聞いていない。
謁見の間ならともかく、そこに続く控室は用もないのに人が来るとは思えない。こっそり入ってくつろぐくらいは良いのではないだろうか。
周囲の廊下にも人気(ひとけ)はないし、やはりここには誰もいないのだろう。
そう考え、至って気楽に扉を開けた先に。
見慣れない騎士が座っていた。
≪雨に交わす≫
(……誰?)
思わず部屋の中を凝視してしまう。
中央には、足が短く天坂が広い木製のテーブルが置かれている。磨き抜かれたそれは、つややかな光沢を放っていた。
そのテーブルを挟み、片側には二人掛けのソファが一つ、もう片側には一人がけのソファが二つ並んでいる。
騎士は、二人掛けのソファに一人でゆったりと座っていた。
肘置きに僅かに体重を預け、くつろいだ姿勢で本をめくっている。
視線を落としているせいか、騎士の頬に色素の薄い髪が落ちかかり微細な影を落としていた。黎明に射す光を思わせる色で、ゆるやかに波打ちながら肩まで流れている。
首周りが広く取られた生成りの上衣は、長袖でありながら織りが薄く涼しげであった。ゆったりとした作りではあるが、それに覆われているのは無駄なく引き絞られた強靭な体躯であると見てとれる。
布が少し長めに取られた腰回りには黒革の剣帯が巻かれており、銀製の剣帯章の中央には深い青色の石がはまっている。自らほんのりと発光しているように見えるそれは、何かしらの力を帯びているものだと推測できた。
剣帯の下からは、厚みのある黒の長ズボンに包まれた下肢がすらりと伸びる。
脛下を覆うのはズボンと同色の編み上げ式の半長靴であり、つま先に仕込まれている鉄製のカップや靴底の厚さから、実用的な頑強さを覗(うかが)わせた。
そのつま先のすぐ横に、鞘。剣帯から鞘ごと取り外したのであろう長剣が、騎士の隣に立てかけられていた。
通常の十字鍔と違い、幅広の鍔の両端は刀身に沿う形でゆるやかに弧を描いている。装飾の少ない、使いこまれた長剣。
本当に、どこからどう見ても実戦型の騎士である。
来賓かもしれないという考えは、しかしその騎士のゆったりとした寛ぎ様によって打ち消された。お客様にしてはくつろぎすぎだ。
誰だろうとは思うものの、完全に声をかけるタイミングを逸した。
扉を閉めて去るのも思いきって室内に入るのも難しいまま、入り口に立ち尽くす。
「入らないのか」
今の今まで無言で、故意にこちらを無視しているのだとしか思えなかった騎士が不意に声をかけてきた。柔らかな低音は、優しげな響きさえも含んで鼓膜を揺らす。
その声に、はっとした。
「ガンスロッドさん?」
「なんだ…?」
訝しげな声音に、さすがに不思議に思ったのか騎士は本から顔を上げた。
軽く首を傾げるようにしながらこちらに向けられた目は、薄い藤紫。
ソファに座っていたのは、孤高の騎士ガンスロッドその人だった。
まったく見知らぬ人だと思っていたのは、実は普段着なだけの騎士であったのか。
来賓のいる部屋を思い切り開けたのかもしれない、と一瞬でも悩んだだけに思わず脱力する。
「こちらで何をされているのですか?」
問いかけると、騎士は浅く息を吐いた。苦笑に似た雰囲気。
「城内が少々騒がしくてな。落ち着ける場所を探して……君も、同じ理由か」
向けられた瞳がゆるりと細められる。微かな笑み。
見透かす言葉と穏やかな眼差しに、素直に頷きを返した。
「どこかでくつろぎたいな、と思いまして…。お邪魔してもいいですか?」
ソファに座る騎士の周りには静寂があった。城内の騒々しさはここまでは届かない。
雨の降り始める直前、水の匂いを多く含んだ空気。少しだけひんやりとしたそれは居心地が良さそうで。
しかしそうであるからこそ、人一人分の余計な熱を持ち込んでいいものか、と。
言外に含め尋ねると、騎士はほんの僅か瞠目した。不思議なことを、とでも言いたげに。
「俺が君を邪魔に思う理由はない。好きなだけ居るといい」
騎士が一人だからこそ親しんでいたであろう静寂に、私が入ってきても構わないと。
頷かれただけであったのに、ほんのりと嬉しさが込み上げてきた。
「ありがとうございます」
礼の言葉に、騎士は眼差しをゆるめ…そのまま本へと視線は戻される。
無言はいっそ穏やかで、私も礼以降は口を開かないまま部屋へと踏み込んだ。
テーブルを挟んで騎士の正面、一人掛けのソファに腰を下ろす。
部屋の最奥、自分から見て左手側には大きな窓。騎士から見ると右手側に当たるその窓は、室内に明かりを多く取り入れるためか随分と大きな作りになっている。
それが位置する壁は、半分以上の面積が窓に割(さ)かれていると言っても過言ではないだろう。
高さもあるせいか、空までよく見えた。
灰色が多く混じった雲は、厚く垂れこめながらも全体はゆっくりと流れている。風が強い。
もう幾分も経たないうちに降り出すか。
そう思った矢先、最初の一粒がぽつりと窓に当たった。その滴が流れるよりも早く次が当たる。
雨足は一気に強まった。ざぁ…と音が追いついてくる。
「降り始めたか」
こぼされた言葉に、視線を正面へ戻す。
騎士は軽く組んだ足の膝上に本を載せ、そのページを1枚繰(く)った。
「ええ。強い雨になりそうですね」
「そうだな…」
窓の外の音を聞き、会話に相槌を打ちながらも、騎士の視線は本に落とされたままだ。
しかし上の空というわけではない。騎士ほどの集中力があれば、二、三の事柄なら何の支障もなく同時にこなせるのだ。
藤紫の瞳はゆっくりと上下している。文章を追っているのだろうその眼差しは柔らかい。
ふと、騎士が何の本を読んでいるのか気になった。
タイトルを読めないだろうか。じっと本を注視する。
厚みのある表紙は布で装丁されているのだと気付いた。
しかし当然ながら、タイトルが見えるはずもない。騎士の膝上に本は広げられているのだ。角度から考えても無理である。
「訊いてこないのか?」
「えっ」
声をかけられ、反射的に顔を上げる。
いつの間にか本から視線を外していたらしい騎士がこちらを見ていた。
「自分で凝視せずとも、俺に尋ねれば早いだろう」
どうしてそうしなかった? と視線で問われる。
咎めるでもなく、あくまで穏やかに。
「邪魔をしたくなかったのですが…、結局はお邪魔を」
気を散らせたくはなかったのだ。
騎士の纏う空気を揺らしたいワケではなかった。しかし結果的に、本から視線を外させてしまった。
僅かに肩を落とすと、それを見ていたらしい騎士がゆっくりと一度だけ首を振る。
「言ったろう。俺が君を邪魔に思う理由はない」
遠慮深いなと呟いて騎士は微笑した。
す、と膝上の本が立てられる。私に背表紙と表紙が見えるように。
題名を告げるのではなく、わざわざ見せてくれた理由。
「…手製、ですか?」
「俺ではないが」
視界に入るようにしてくれた装丁は、深い緑。
ただ色が濃い訳ではない。ごく薄い緑の細糸を幾重にも編み重ねて生み出される深い色だ。
題名の文字は鈍い灰銀色。表紙と背表紙に刻まれたそれは、微細に砕かれた鉱石によって彩られている。
傷みやすい角の四隅は薄い金で覆われ、きちんと補強されていた。
量産できる仕事ではない。丁寧に丁寧に時間をかけて一冊を作ったのだろう。
記憶を探る。そうだ、あの本は…。
装丁の布の染色方法が特殊だったはずだ。
その珍しい技術を確立する為の支援を求め、実物見本として提出献上された巻布と、それを使用したいくつかの実例品。それらの中に含まれていた一冊ではなかっただろうか。
「中身を読まれている、のですか…」
「仮にも本なのだ。そうおかしなことではないだろう」
「確かにそうですけれども」
意外だ、というのは失礼だとわかっているが。
あの本は装丁を見せるために提出されたものだ。中身を検分するとは思わなかった。
そう考えて…目に映るのは、再び本へ視線を落とす騎士の眼差し。その穏やかさ。
ああ、と思う。
本を読んでいるだけだ、とそう言ったではないか。
装丁の技術見本だとか、中身の検分だとか。そんな温度のない言葉ではなくて。
「……どんな、内容なんですか?」
思わず口をついて出たのは、そんな唐突な質問で。
少し予想外だったのか、騎士は視線を上げる。私の顔を見つめ…ふと藤紫をゆるめた。
「優しい、話だ」
雨の最初の一粒を、大きな海が受け取るように。
老木の残した一枚の若葉を、深い森が抱くように。
新たな巣立ちの一声を、吹き渡る風が慈しむように。
「…母が生まれたばかりの我が子に語り伝える。昔から辺境にはよくある話だ。寝る前に子供に読み聞かせるための、いくつもの他愛ない話」
それが綴られていた、と。
遠い日を思うように騎士は微かに、ほんの微かに笑った。
言葉に乗せずとも伝わってくる。それは愛おしむべきもの。
愛おしく、守りたいと思えるもの。
騎士の瞳の色に、胸が満たされる。
「…返さねば、なりませんね」
呟くと、不思議そうな顔をされる。
その表情に、笑みを向け。
「本を拝見して、思いました。提出するだけにしては、本当に丁寧な仕事のようです。誰かを…それだけ大切な誰かを想って作らねば、そうはならないでしょう」
布の染色を見せるのにわざわざ本にする必要はないだろう。
本来は、別の何かを目的とし作られたはずだ。
それこそ…母が子に贈るような。愛しい者へ繋げるような。
私が言わんとしていたことを汲み取り――あるいは騎士自身も既にそう思っていたのだろう、騎士は頷いてくれた。
「そうだな」
本を静かに閉じ、膝上のそれを見つめる。表紙を軽く撫ぜてから。
「そうだな……」
視線をこちらへ向け、騎士はもう一度微笑んだ。
2011.11.05.