短編
□兎は笑った。目覚めさせないことだ、と。
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「ね、だから言ったろう?」
ひどく優しい声音で、兎はゆっくりと囁いた。
闇に生きる者たちがそれぞれ所有する中でも一際特殊な領域。その内部に抱かれたまま愕然と立ち尽くす彼女へ向けて。
黒く閉ざされている空間は、しかし遠くに光源があるかのように薄青く見通しが効いた。
浮かぶのは大小様々な石塊。いずれも方形であるそれらは、金砂を含んでいるらしく時折きらりきらりとどこにあるかも知れぬ光を反射しては輝いている。
中空に浮かぶ金砂石の一つに腰掛けているのが、この空間の主であった。
人に似た兎。
すらりとした肢体に紺色の執事服を纏っており、革靴は爪先まで磨き抜かれ、白手袋は指先まで皺一つない。大きく長い耳は櫛で整えられているのか毛艶良く、燕尾の隙間から覗く尻尾もまた同様であった。
瞳は紅。兎ならではのその色は、しかし自らの血ではなく他者の血を映しているかのような…あまりに鮮やかな深紅だった。
その鮮紅の瞳に優しげな、それでいて愉しげな色を滲ませ、兎は再びゆっくり口を開く。
「この世界は、君を解さないよ。君の言う愛とやらを解さないんだ」
立ち竦んだまま俯く彼女の耳元へ、柔らかく声を吹き込む。
「彼らは君を傷付ける」
耳の奥をするりと撫でるように。馴染みやすい声音でひたすらに柔らかく。
慈しむ色だけを滲ませ、優しく優しく兎は囁き続けた。
「君を追い詰めて、苦しめて、最後には命を摘み取る。皆、君と違う生き物だからね。しかたがない」
しかたがないんだよ、と繰り返す。
本当に嘆かわしそうな声音で。惜しんでいるかのように。
俯いている彼女からは見えないその表情に笑みを浮かべて、兎は囁きを繰り返していた。
「闇の住人は、光を迎え入れはしない。彼らには必要ない。導かれることなど、必要としていないのさ」
――だから君を傷付ける。
囁きに、彼女の肩が震えた。兎はますます笑みを深くして。
「彼らの前に君が立ったところで、何の意味があった? 彼らは君に何をした?」
耳に馴染む声だからこそ、耳を塞ぐことなど許さず。
じわりじわりと彼女を侵していく。
優しい顔をして、悪夢は近づいてくる。
「外の世界は君を害する。…もう死ぬのは嫌だろう?」
それはただの夢だった。
意識の隙間に忍び込ませただけの、ただの夢。しかしいくら彼女と言えども痛みある夢に精神は摩耗する。
現実と変わらないからこそ、それは悪夢なのだ。
「――でも、ここに君を傷付けるものは何もない」
優しい優しい声は、いっそ甘く。
兎は腕を広げた。己の空間を示すかのように。
その動きにつられ彼女が顔を上げた。兎は笑う。
「ここなら君は傷付かない」
彼女の視線の先、兎が指し示した先で、中空に浮かんでいた幾つもの金砂石がゆっくりとその高度を上げた。
昇りながら、闇に溶けるように一つまた一つ消えていく。
金砂石によって作られていた死角には、いくつもの水晶の欠片が浮いていた。
「痛みも苦しみも、全てを君から遠ざけてあげる」
限りなく黒に近い、しかし光を決して通さない沈んだ暗い緑。それらは全て…成れの果てだ。
かつて紫だったものの、かつて白だったものの――変質の果て。
他の領域とはそもそもの在り方が違うそれらが、ふと光を灯した。
「ここだけが、君に優しくできる」
否、光に似ているが自身で発光している訳ではない。黒に閉ざされた空間の中、あまりに鮮やかなその色が光と錯覚させただけだ。
中心に向けて濃くなる黄の真円。満月に似た模様。
全ての緑水晶に浮かび上がったその真円は、まるで無数の月が同時に昇ったかのようで。
光なき月に、彼女は魅入られた。
鮮紅を細めて兎は楽しげに首を傾げる。分かりきっていることを確認する時のように。
答えが、末路が分かりきっていてなお、それが愉快で仕方ないと。
「君がここにいる限り」
彼女を見つめて、ゆるりと笑う。
――エクリプス。
冠する名のままに、浮かんだ月が欠けていく。影に蝕まれて欠けていく。
彼女の目も、閉ざされていく。
「この世界は、君を守ろう」
耳の奥を、心の底を撫でるように囁いて、兎は金砂石から降り立った。
ぐらりと傾いだ彼女の体をその胸に抱き止め、くつりと喉を鳴らす。
最後まで残っていた金砂石。空間の外から叩き付けられた紫と白の殺意を受け、それは音もなく砕けて消えた。
きらきらと舞う欠片に兎は笑うだけだ。
領域は揺らがない。何も通さず、何も出さない空間であるが故に。
内部に抱かれた彼女には、何者も手出し出来ない。
胸に収めた彼女に視線を落とした兎からは、笑みが消えていた。
完全に瞼を閉ざした彼女を見つめ、鮮紅の瞳をじわりとゆるませる。
心底満足そうなそれは、微かに喜びを帯びて。
「おやすみ、マイヴァンガード」
深く閉ざされた彼女の瞼に、兎はふわりと口付けた。
≪貴方にとっての、愛とは?≫
――それはこの世界で最も愚かな問いかけだった。
敢えて語る言葉を彼らは持たなかったから。
どれほど彼女と形が違えども。
彼らもまた、確かに彼女を愛していたのだ。
2011.10.25.