短編

□男は呟いた。生かさないことだ、と。
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もしかしたらこの世界で最も愚かな問いかけだったのかもしれない。
そう思いながら敢えて口にしたその理由は。

彼女もまた、彼らを愛していたからに他ならない。



≪貴方にとっての、愛とは?≫



それを見た男が思い浮かべたのは、おや、という短い感嘆でしかなかった。
男の領域である石英と氷柱の洞。その入り口の壁面に一つの血痕。

その赤い色に、男は片眉を上げた。

位置と量からして、おそらくは血を流し過ぎてよろめき、手でも付いたのだろう。
掠れて滲んだ血はまだ赤い。生きたものが生きたまま逃げ込んできたか。
そう判断し、男は静かに息を吐いた。

哀れな。この陣営のどこに行けば逃げ延びられるというのだ。
逃げ回らなければならない時点で、ダーク・ゾーンに来るべきではなかった。


「そうだろう、……マイヴァンガード」


其処此処では石英が結晶化し、その壁面を白く煌めかせている。
そしてそれらの結晶も含め、広く深く枝分かれしていく洞はその全てが凍りついていた。厚い氷に覆われ、細かな霜を纏い、もはや自然の熱を忘れた零下の領域。
冷気が先だったのか凍結が先だったのか、今となっては主である男にも判然としない。
石英を内包した氷柱が乱立する洞は、ただ白く凍りついていた。

その中を幾ばくも進まないうちに、人影に行き当たる。
洞そのものの冷気のせいかうっすらと白い靄が漂う中、壁を背にしてうずくまる彼女の姿。

呼びかけに反応も示さないが、男は構わず彼女の正面に片膝をついた。
そっと肩へ手を伸ばす。
しかしその指先が彼女に触れる寸前、不自然な距離でその手を止めて呟く。


「熱い、な…」


言葉の通り、彼女の体は熱を持っていた。立てた膝に埋められた顔は見えないが、首筋に薄く汗をかいている。
洞の冷気を持ってすら冷やせないほどのそれは、尋常な熱量ではない。

少しく彼女を眺め、男は深く嘆息した。
これだから、煩わしいのだ。

おそらくは弱った体に強烈な冷気を浴びたせいで、熱を発したのだろう。
生命を維持する為の、命を燃やす熱さ。そんなもののせいで彼女は苦しんでいる。
氷柱に囲まれてなお熱を持て余している。

何故、という疑問など詮無きこと。

答えは簡単だ。彼女が違うから。
赤い血を通わせ、その血の熱で生きているあたたかい生き物だから、そうなるのだ。

零下の中でも灼熱の中でも生きられはせず、温かく穏やかな環境でようやく命を繋ぐ。
平穏の中で息をする、弱くあたたかい生き物。

それ故に…冷たくなりすぎても、熱くなりすぎても、弱り苦しむのだ。
力無くうずくまり、吐く息を凍らせながら高熱に苛まれて。

脆弱な、と鼻で笑うことは簡単だったろう。
しかし男はそうせず、代わりに目を伏せた。

熱い血など煩わしいだけ。
己とあまりに違う温度、故に自らの先導者に触れることも叶わず。
けれど、触れずとも感じるその熱が。平素の彼女の穏やかなあたたかさが。
確かに己の温度も変えていたことを思い、静かに目を伏せた。


「マイヴァンガード」


目を伏せさせた思いを吐き出すようにそっと囁く。
男の息は凍らない。乗せた思いと同じだけの熱が男に宿ることはない。
彼女とは、違うから。

再び視線を彼女へ向けた男の瞳に熱はなかった。

月も星もとうに沈み、光無きまま凍てついた夜空の果ての色。深く暗く、恐ろしいまでに透明な紺碧。
その眼差しを彼女に注いだまま、男は腕を伸ばした。逡巡など初めからなかったかのように。迷いの生まれる隙のないように。

指先が、彼女に触れる。

一瞬だった。ビシリ、と亀裂が走る時にも似たそれは、凍てつく音。
身じろぎすら叶わぬまま、彼女の体は氷に閉ざされた。
内側から凍りついた彼女が目を開けることはもうない。二度と溶けない。

少しだけ彼女から離した指先へ、男は視線を落とす。
男にとっては当たり前のことだった。纏う冷気が己以外の全てを凍結させることなど、常であった。

彼女のあたたかさを脅かさぬよう冷気を体内に収めていたことも、氷人形などにしてしまわぬよう決して彼女に触れなかったことも…今となっては全て終わったことだ。
二度と溶けぬ永遠の氷でありながら、同時に脆く繊細で、少しでも触れてしまえばその瞬間に砕け散る。
いつも男の周りに在ったそんな氷人形が、いつもと同じように一体そこに在るというだけのこと。

これでもう、彼女が熱に煩わされることも…いずれ熱が喪われることに怯える必要も、ない。

初めて彼女に触れた指先を、男は見つめ続けた。

あたたかいものも凍てついたものも、触れないことでしか形を保てない。男はそんな生き物だった。
瞬きにも満たぬ刹那、指先に感じた熱。触れたことで本当に確かにそこに在ったと知れたあたたかさは、触れたことで永遠に失われた。


「マイヴァンガード。私は、貴方を……」


口を閉ざす。
何もかもを凍てつかせ、男はそっと己の指先へ口づけを落とした。


2011.10.17.


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