短編

□男は嘯いた。殺さないことだ、と。
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もしかしたらこの世界で最も愚かな問いかけだったのかもしれない。
そう思いながら敢えて口にしたその理由は。

彼女もまた、彼らを愛していたからに他ならない。



≪貴方にとっての、愛とは?≫



走り去る小さな背中に、男はどうしようもなく怒りを覚えた。
明らかにその怒りに対して身の危険を感じて逃げ出したであろうことは、頭の片隅の冷静な部分で理解している。

彼女と男ではそもそもの作りが違うのだ。
怒りに任せて刃を振るいかねない男の近くにいたままでは、彼女の生命は脅かされる可能性が高い。それは彼女にとって、また男にとっても歓迎できる事態ではない。

彼女が逃げ出したこと、それは一時的なものであり、男との関係を維持する為であったればこそである。
それら全てを理解していてなお…男は怒りを覚えた。


「なに逃げてんだよ」


いくら彼女が走ろうとも、速さの差は歴然だった。
離したつもりの距離を一気に追いすがり、その背に言葉を投げつける。

向けたのは言葉だけ。男は自制し、殺気も刃も向けなかった。


「なぁ……」


しかしそれでも彼女は男から遠ざかろうとする。男はそれを許さなかった。
紫水晶の森の中、ついに男の左手が閃く。


「なんで俺から逃げてんだよ。マイヴァンガード…っ!!」


ヒュッと風を切る音。それから男にとっては慣れ親しんだ、肉を裂く感触。
常とは違いさらに続いたのは、ぎぃぃ…いん、という鈍く硬質な音。


「ぐっ、う、…ぁあああっ!!」


彼女は一瞬悲鳴を飲み込みかけ、しかし痛みに耐え切れなかったのか魂切るような叫び声を上げる。
後ろから刺し貫かれたのは、左手。
骨と骨の隙間から手のひらへと貫通した刃は、勢いを殺さずそのまま水晶の幹に激突した。深く突き刺さり、文字通り彼女を縫い止めて。

衝撃で白く煙るように色が変わった幹の上を、とろりと赤い血が流れて行く。

鋭利な刃と化した左人差し指で彼女を縫い止めたまま、その背に覆い被さらんばかりの位置まで男は距離を詰める。
漂うのは止まらない血の匂い。充満するその匂いと、ようやく止まった彼女に多少気をよくしたのか男はニタリと口角を上げた。


「なぁ、もう逃げるな」


指先に力を込めると、ぎちりと骨の軋む音がする。
貫かれたまま傷口を開かれるのは相当な激痛なのだろう、幹に押しつけられた彼女の顔が歪んだ。低い呻き声が漏れる。

痛みでなのか、その細い首筋には脂汗が滲んでいた。
うっすらと濡れるうなじを見下ろし、男は目を細める。


「逃げられると、殺したくなる…」


流れ出した血は止まらない。幹を濡らし、彼女の肘までも真っ赤に濡らし、指先を伝って男の手首まで滴った。
むせ返るほどのその匂い。現状への本能的な恐怖か、それとも既に血が流れ過ぎているのか、彼女の横顔は紙よりも白かった。呼吸は速く浅い。

しっとりと汗で濡れ、喘ぐように呼吸するその様。酔うほどの血の匂い。

ああ、興奮しそうだ。感じた欲に男は喉奥で低く笑った。
己の性癖では相手を一回で抱き潰してばかりなのだ。彼女にだけは情動を抱くまいと理性で抑えていたというのに。


「困ったもんだ…。なぁ、マイヴァンガード」


もうほとんど血が残っていないのか、貫かれた手を支えに力なく幹へ預けられた彼女の体。
その両足の間に、男は片膝を突いた。
形だけは膝の上に座らせるように、実際は膝を捻じ込むように彼女の秘部を圧迫して。刺激などという言葉では生ぬるいほどぎちぎちと力を込める。


「今度逃げたら、串刺しにしちまうかも」


上へ上へと持ち上げるようなその行為の衝撃か、またも男の指先が彼女の手の傷を押し広げた。新たな血がどくりと脈動に合わせ溢れ出す。
最早彼女は声も出せないのだろう、ただ顔を歪めて喉をのけ反らせるだけだ。


「…俺にとっては、殺さない方がよほど難しい」


じわりとした熱を孕んだ声を直接耳に吹き込んでから、男は彼女の喉に唇を落とした。


20110731


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