短編

□愛と真逆の位置に立つ
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台風一過。まさにその言葉通りである夕暮れ。
吹き抜ける風はまだ多少強いものの、空は雲も散り見事な茜色だ。
空ばかりか空気まで染まっている。

天気なのか湿度なのか、もしくは空気中の塵の有無でも関係しているのか。
台風の時期、夏の夕暮れにたまに起こるこの現象。

空は茜に、空気は紫に。

周りの景色全てが燃え上がるような、そんな夕暮れ。
滅多に見られない綺麗な現象のはずなのに…、その日はやけにぞっとした。
美しいのに禍々しいことに、ぞっとしたのだ。

それが、地球で見た最後の景色であったというのに。



≪愛と真逆の位置に立つ≫



(何これ…)


ここはどこだ。強い眩暈を感じて目を閉じて開けたら景色が一変していた。
何かの小説じゃあるまいし、自分に降りかかる現象としては笑えない。
まったく笑えない。

おまけに明らかにヤバイ。

平和な現代日本にぬくぬくと育った一般市民である自分が命の危機を実感してしまいそうなくらいにはヤバイ景色である。
いや、景色そのものは単純に見れば美しいのかもしれない。

一言で表すなら、紫水晶の森。

木々が密集した深い森の中である。暗闇に沈み、一見ただの山奥かと思ったのだが。
…どうやってそこに来たのか経緯がわからずともただの山奥の方がよほど良かったのだが。
暗闇に目が慣れて気付いた。ここは普通の森ではない。

木の一本一本がやけに硬質に思えてじっと凝視してみると、表面が薄く結晶化していたのだ。
視線を転ずれば、木の上…枝先や葉に至っては完全に紫水晶のそれである。

鬱蒼としているせいで分かりづらいが、おそらくは月の光だろう。それを透かし、森の天蓋自体はきらきらと紫色に輝いている。
満月なのか青白んだ光の中、紫水晶へと育つ森がぼうと浮かび上がる様は美しい。

狂気を孕んだ美しさだった。

天蓋が輝こうとも…木々の根本、ぴくりともそよがない枝葉が落とす影、月光の届かないそこかしこに濃い闇がわだかまっている。
踏み込んだらどろりとまとわりつくような。

嗅いだことなどないはずの、血と死の臭い。
それが辺り一帯に充満している気がして、一歩も動けない。
本当は息をするのも恐ろしかった。ここの空気が自分を害さない保証など、どこにある。

細く小さく息を吐く。極度の緊張で、体が冷や汗に濡れる。
強い眩暈を感じ、ああこれで元いた場所に帰れたら…そう思い目を閉じた瞬間。


「よう。こんなところで何してるんだ?」


ざらり、と。金属の板同士を擦りつけた時に出る音のような。
ただひたすらに嫌な気持ちを沸き起こし、聞きたくないと思わせる…そんな声がした。
その感覚が怯えや恐怖から来るものだとは、すぐには気付かなかったが。

その突然の声に息を呑み肩が跳ねるほど驚いたのだが、それがどこから聞こえたのかわからずに視線を彷徨わせる。
すると、くつくつと笑い声がした。先ほどと同じ声。


「なんだよ、びくびくして。何がそんなに怖いんだよ」


紫水晶の幹の横。いつの間にか人影があった。
人影…いや、違う。あれは人じゃない。人間じゃない。

闇に沈んだ肌は人の色ではなかった。血の通わない暗い色。
なびかせた銀紫の髪の間から覗く耳は長く尖っている。

エルフ、中でもダークエルフと呼ばれる存在。そう見えた。

頬には赤い模様、口元には親しげな笑み、そして…にこりともしていない翡翠の瞳。
こわい。
そうだ、怖いのだ。だが目が離せない。

目を離した瞬間に、何かが終わる気がして。

じっと見つめる先で、人ではない男が一歩近づいてくる。
表情だけはにこやかなまま。悠然とした挙動。


「初めて見る顔だな。もっとも俺が数回見る顔はそういくつもないが。名前は?」


ゆったりとした動きで、一歩。また一歩。


「…名前?」


思わず聞き返す。何故いきなり。
凍りついた思考回路でも、男の問いかけに不穏なものを感じた。

距離にしておよそ3メートル。男はそこで足を止める。


「呼んでやろうと思って。俺が最後だから」

「何が」


すぅと翡翠の瞳が細まる。笑みと呼ぶには酷薄なそれ。
声だけが、楽しげに響いた。


「生きたお前の名前を呼ぶのが、な」

「っ!!」


瞬きよりもなお速く距離を詰められる。動きを視認できないまま肉薄され、総毛立った。
ほんの目前に立った男に見下ろされ、まじまじと顔を覗き込まれる。
垂れた男の髪が自分の頬に触れる距離に、鼓動が止まる思いがした。

目の前に死がある。


「名前は?」


まるで純粋な親切であるかのように、ただ明確な終わりを予告される。
瞬間的に沸き上がったのは、本能的な恐怖。

生存本能が軋んで音を立てた。


「名乗る気はない!」


なのにどうしてそう叫んでしまったのか。
全身の震えを抑えられないほど怯えながらも、何故か意地が勝った。
恐怖で正常な神経が擦り切れたのか、ただ捨て鉢になったのか。

それでも、死を前提にして名乗る気はなかった。

命を燃やしたささやかな矜持。
小さなそれだけを握り、目の前の翡翠を睨みつける。

ほんの僅か瞠目してから男はニィ…と笑った。
翡翠を煌めかせ、口端を引き上げ、先程までとは違う本当に楽しそうな笑み。

見た瞬間、脊髄反射で体が震えた。心臓が凍るほど冷たくなる。
ちっぽけな矜持など男の前ではへし折られるだろう。
吹けば飛ぶほどの軽さもない、ただ無造作に散らされるだけなのだ、自分の命は。

容赦のない事実が、笑み一つで見せつけられる。


「いいだろう」


強張ったままの頬を、男の片手にするりと撫でられる。
首の裏まで鳥肌に襲われながら男を見上げていると、くつりと喉の奥で笑われた。


「生き残れたら、生かしてやる」


頬を撫でた手が肩まで降り、とんと軽く押された。
後ろに数歩たたらを踏む。
何事かと思い、次の瞬間には理解した。

逃げろと。明らかに嬲るその為だけに。
止まっている獲物を仕留めたところで面白くもなんともないから、走らせようというのか。
わざと逃がしてから、狩るつもりなのか。

動物に行ったとて眉をひそめたくなるような所業を、自分にするのだ、この男は。

ふと感じたのは風でしかない。男の方から一瞬風が吹き抜けた。
直後、ぴりっとした痛みが首筋を走る。微かな熱。濡れた感覚。
斬られた。どうやったかはわからないが、確かに首に一筋の傷。

怯えて逃げ出すように。獲物が逃げ惑うように仕向けるための、戯れの一撃。

瞬間、砕かれかけた心を生存本能が支えた。
わざわざ放してくれるのだ。ならば逃げてやろう。
生き残る可能性があるというのなら、その道を。

震える膝のまま男に背を向ける恥辱を意地で覆い隠し、力の限り走り出した。




背を向けて走り出す女を、その場に立ったまましばらく見送る。
全身をみっともないほど震わせながら、それでもこちらを睨みつけてきた女。

思わず喉が鳴った。久方ぶりに湧き立った感情に笑いが漏れる。

撫でたのと大して変わらない一撃にすら肌を裂き血を流し。
見るからに無力で、小さく、脆弱すぎる。
死なないよう加減することすら手間であろう。少し力を入れるだけで潰れそうな。

獲物としてはひどくつまらない部類だ。
手応えもなく長持ちもせずすぐに死んでしまうようでは、面白くもなんともない。
しかし。


「名乗る気はない、ね…」


助命を乞う訳でもなく、かといって死への覚悟を決める訳でもなく。
ろくな抵抗の手段を持ち合わせないにも関わらず、震えながら吐き出したのは拒絶の言葉。
本当に愚かでしかない。

哀れなほど愚かで、いっそ可愛らしいではないか。

女の首筋を裂いた刃を指先へと戻す。僅かばかりの赤い血で濡れている。
そこから立ち昇る蠱惑的な香り。狂おしいまでのその匂い。

ずくりと腰から感じる情動に、喉奥で低く笑う。

今頃逃げ惑っているのか。俺から逃れることを考え、走り続けているのか。
ああそうだ、女は知らないのだ。この森が俺の領域であることを。
どこまで行っても意味はないことを。

一度掌中に収めたものを、俺が逃がすことなど有り得ない。

震えながらも抗ったあの命を、ゆっくりと摘み取ろうか。
名も知らぬ女の瞳の色を思い浮かべ、愉悦に一人笑った。


20110727


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