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□エイプリルフールログ
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【クレにょクラ】
ちくちくと、そんな実際にはないはずの音が聞こえてくるような気がするほど、宿の夜は静かだった。
「クレス、マントが解れてるじゃないか」
いつものように剣の手入れをしていた時、不意に本から顔を上げたクラースさんにそう言われて。
鎧から外して確認すると、確かにマントの裾が擦り切れて解れ始めていた。
こういうのは早く繕わないとどんどん広がっていくことを知っている。
そう、知っているだけだ。
生憎僕は針に糸を通すだけでも四苦八苦するような有り様で、そんな僕が裁縫なんて出来るはずもない。
「ああ、本当だ‥‥」
目の前にマントを広げて間の抜けた声で呟く僕の視界から、突然ばさりと音を立ててマントがなくなった。
こんな時すぐにそれを引き受けてくれるミントは今はいないはずで、振り返ればそれを手にしているのはやっぱりクラースさんだった。
当然だ。
だってここは、僕とクラースさんしかいない部屋なのだから。
遅く入った宿は二人部屋しか空いていなくて、今までそうしてきたように今日もまた、僕はクラースさんと相部屋になった。
男が僕一人というこの状況は、こんな風に二人部屋に別れなければならない時は非常に困る。
―――はず、だった。
あれはいつだったか、確かベネツィアに泊まった夜だったと思う。
二人部屋しか空いていないと言われて仕方なく三部屋取ろうとした僕を制して、クラースさんはあっさりと僕との同室を提案してくれた。
もちろん僕は断ったけれど、無駄なお金を使う余裕はないんだときっぱり言い切られてしまえばもう何も言えなかった。
僕の緊張に反してクラースさんは本当に何も気にしていないようで、本当に呆気ないほどその夜は無事に過ぎた。
それからというもの、二人部屋を取るしかない時の部屋割りは暗黙の了解で僕とクラースさん、ミントとアーチェということになって。
今日も例に漏れず、当然のように僕はクラースさんと同室で、クラースさんは何も気にしていないようにごく普通に寛いでいた。
確かに考えてみれば、僕にとってクラースさんは大人の女性で、それはつまりクラースさんから見れば僕はまだまだ子どもだということで。
きっとクラースさんにとって僕は男である以前にただの子どもで、僕が感じるような緊張や後ろめたさなんてものは全くないのだろうと思う。
信頼されている、というのもあるとは思う。
それは喜ぶべきことであるはずなのに、けれども僕の心は、自分でも理由は分からないけれど妙にもやもやとしていた。
たとえばクラースさんが、僕の前でさっさと上着を脱いで楽な格好になる時。
たとえばクラースさんが、シャワーを浴びてバスローブ一枚で僕の待つ部屋に戻ってきた時。
たとえばクラースさんが、部屋でお酒を飲みながら赤くなった顔で上機嫌に絡んでくるとき。
たとえばクラースさんが、珍しく疲れた様子で僕の前で布団に包まってすやすやと眠ってしまった時。
たとえばそんな時、僕の中のもやもやは一段と色濃くなって胸の中をもぞもぞと這い回る。
何かに吐き出してぶつけて、どうにかしたくなってしまう。
もちろんクラースさんには気付かれないようにしているけれど、自分でも分からないこのもやもやを僕はいい加減持て余していた。
物知りなクラースさんなら何か知っているかもしれない。
話をすれば何か解決法を教えてくれるかも知れない。
そうは思うものの、何故だかどうしてもクラースさんに相談する気にはなれなくて。
結局僕は未だに、このどうしようもないもやもやとの付き合い方に悩んでいた。
「クラースさんって、絶対いいお嫁さんになりますよね」
赤い布地を出たり入ったり、するすると器用に動く針と糸。
それを操る細い指先をじっと眺めていたら、無意識の内にそんなことを言っていた。
直後に自分が何を言ったのか気付いてさあっと血の気が引くような感覚になったけれど、当のクラースさんは全く気にしてもいないようで。
「おだてたところで何も出ないぞ」
ちらりと視線を僕に向けながら、悪戯っぽい微笑みを浮かべてクラースさんが言う。
その目はまたすぐに手元に戻って、クラースさんはまたちくちくと作業を進めていく。
冗談で済まされたような気がして、クラースさんが信じてくれていないように思えて、僕はつい不満げな声を上げてしまった。
「僕は本当に思うから言ってるんです」
「お前の言う通りなら、この歳までこうして独り身でなんかいないだろうよ」
今度は視線を上げないまま、クラースさんはおかしそうに小さく笑う。
その言葉に一瞬、本当に一瞬だけど僕は確かに嬉しいと思った。
けれどどうして嬉しいのか、そもそも何が嬉しいのか、自分のことなのに僕には全く分からなかった。
「売れ残りってやつさ」
呟かれた言葉に反して、クラースさんの声に否定的な感情は全く含まれていない。
それはつまり、クラースさんは現状に何の不満もないということなのだろう。
確かにこの人は、いつまでも自由に純粋に、自分の信じる研究をただひたすら続けている姿の方が似合っていると思う。
きっとクラースさん自身もそんな風に思っているのだろう。
けれど僕は、たとえ冗談でもクラースさんがそんな言葉で自分を表現したことが悲しかった。
だって僕から見れば、いや、きっと誰からみても、クラースさんは魅力的な女の人のはずなのに。
ちょっと不器用で人見知りなだけで、本当はこんなにも素敵な人なのに。
そんな怒りにも似た思いがふつふつと胸の奥から沸き上がってきて、気付けば僕は身を乗り出して、叫ぶような勢いでクラースさんに詰め寄っていた。
「それは周りの人達の見る目がないんですよ! だってクラースさんは料理も上手ですし、頭もいいし、縫い物だって出来るし、優しいし、あったかいし、それに‥‥っ」
それに、とても綺麗で、とても可愛いから。
何故だかそれを言うのは憚られて口を噤むと、きょとんとしているクラースさんと目があった。
思ったより近くにあるそれに驚いて、同時に自分がすごく恥ずかしいことを言っていることに気付いて、中途半端に浮かんだ腰をおずおずとまた下ろす。
萎れるように元の体勢に戻った僕がおかしかったのか、クラースさんは手を止めたまま堪えきれないと言いたげに笑い出した。
自分でも格好悪いと思うから顔を上げられなくて、けれどいつまでも笑うのを止めないクラースさんにさすがにむっとしてしまう。
いくら何でも、そんなに笑わなくてもいいじゃないか。
口に出しては言えない文句をこっそりと視線に乗せて上目遣いで見つめると、クラースさんは謝りながらひらひらと手を振った。
それでもやっぱりまだ込み上げてくるようで、うっすらと涙まで浮かべながら肩を震わせて必死に笑いを噛み殺している。
あまりの居心地の悪さに、もうベッドに潜ってしまおうと決めて勢いよく立ち上がる。
けれど僕はまたも、クラースさんのせいで情けない姿を晒す羽目になってしまった。
「随分と褒めてくれるじゃないか。もしかしてお前が貰ってくれるのか?」
「え‥‥!?」
後ろから投げ掛けられたクラースさんの言葉に、一瞬頭が真っ白になって何も考えられなくなる。
直後にその意味を理解して、理解したその内容に動揺して僕は椅子に足を引っ掻けて盛大に転んでしまった。
ごつ、と重く鈍い音が頭の中に直接響く。
けれども音の悲惨さに反して痛みは全く感じなかった。
いや、そもそも感じる余裕がなかったのかも知れない。
だってまたクラースさんの笑い声が聞こえたのに、今の僕にはそんなものはどうでもよかったのだから。
「冗談だ、そう慌てるな。ほら、出来たぞ」
未だおかしそうにくすくすと笑いながら、クラースさんが僕の腕を引っ張って起こしてくれる。
立ち上がると同時にマントを手渡され、反射的に広げてみるとさっき解れていた裾は綺麗に繕われていた。
ありがとうございます、と早口で言ったような気はするけれど、クラースさんにちゃんと聞こえていたかどうかは分からない。
とにかくばくばくと暴れる心臓を落ち着けたくて、熱くなった顔を見られたくなくて、自分でも分からない何かに急かされるように僕は慌ててベッドに飛び込んで頭まで布団を被って隠れた。
おやすみ、なんてからかうような声が聞こえたような気がする。
布団の中で丸まったままとにかく落ち着こうと深呼吸をすると、体勢的に胸に抱き込むようになっていたマントからふわりといい匂いがした。
本当に微かに香るそれは、僕の知っているクラースさんの匂いで。
何だかよく分からないものが胸を掻き乱して口から飛び出してくるような感覚に襲われて、シーツを引っ掻くように布団の中でもぞもぞと暴れる僕はまたクラースさんに笑われているようだった。
クラースさんとの二人きりの部屋には、まだまだ慣れられそうもない。