book
□ハニージンジャー
2ページ/7ページ
ふと、まるで止まっていた時間が再び動き始めるかのように唐突に意識を取り戻す。
靄がかかったような思考と視界が次第に鮮明になっていくのを他人事のように感じながら、そこで初めて彼は自分が眠っていたのだということを理解した。
何だかんだ言ったところで、やはり横になり目を閉じていればその内に眠ってしまうものらしい。
部屋の中は最後に見た姿とは異なり、カーテンがしっかりと閉められた代わりに人工の灯りによって満遍なく照らされていた。
はっきりとした時刻は分からないが、恐らく三、四時間は寝ていたのだろうと推測する。
「調子はどうだ」
「ああ、元々喉の痛み以外は何とも‥‥」
静かに掛けられた声に条件反射のように言葉を返しかけ、しかしクラースはふとそれを止める。
凛とした響きの中にどことなく無機質さを感じさせるその声は、クレスは勿論チェスターのものとも異なっていた。
「な‥‥っ!?」
慌てて起き上がった視界に入ったのは、いかにも当然そうにベッドの脇で椅子に腰掛けている精霊王オリジンの姿。
予想通りではあるものの理解が伴わないその存在に、クラースは冷静な彼らしくもなく混乱を露わにした。
「な、何でここにいるんだ!?」
「我が自らの意志で参ったのだ。心配せずとも主に影響はない」
「いや、手段ではなく理由を聞いているんだが‥‥」
「まだ掠れているな」
あまり会話を成立させる気がないのか、オリジンはクラースの質問には答えないまますっと手を伸ばした。
喉仏に触れるその指先は人並みの温もりを持っていて、労るように撫でていくその熱にクラースは小さく身体を震わせる。
律儀に返ってくる反応に小さく笑いながら、オリジンは身を屈めクラースの顔を覗き込んだ。
「主の声が常と異なっていた故に気になった―――それでは不足か?」
深紅の瞳が真っ直ぐにこちらを見据え、唇が挑発的に弧を描く。
それは問い掛けの形をとりながら、その実相手の答えを完全に理解した上の言うなれば確認行為である。
そして彼が想定した答えと同じものしか持ち得ないクラースは、それを表すかの如く無言になるしか術がなかった。
恐らく、あの戦闘で彼を召喚した際に聞かれてしまったのだろう。
召喚における詠唱とはいわば精霊をこちらに導くための呼び掛けの言葉であるため、いくら小声にしたところで全く意味はない。
気付かなかったわけではないが、まさか精霊から心配されるなどと思ってもみなかったクラースにとっては完全なる盲点であった。
「それはまた有り難いことだが‥‥なにも姿を見せる必要はないだろう」
然り気無く身を引いてオリジンの視線から逃れながら、クラースは呆れたように息を吐いた。
万物の根源たる精霊王は、しかし全知全能の神ではない。
傷や病を癒す力を持つわけでもないのだからわざわざ現れる必要もないだろうというクラースの言葉は、照れ隠しであると同時に彼の純粋な本心だった。
涼しげな顔をしてはいるが、いくら王とはいえ彼も精霊である。
召喚士を媒介せず自らの意志でこちらの世界に姿を現し、ましてこうして留まるためにはそれ相応の力を費やさなければならないはずなのだ。
そのような危惧からだろうか、クラースは頻繁に自分の前に姿を見せるオリジンの行動にあまりいい顔をしないことがある。
しかし当のオリジンはといえばそんな彼の言葉をさらりと受け流すばかりで、今回も例に漏れずそれは同じようだった。
「主が眠っていたが為に法術師の娘がこれを手に立往生していたのでな。扉を開けてやったまでだ」
そう言って、サイドテーブルに置かれたものを視線で示してみせる。
追うようにそちらへと顔を向けると、トレイに乗せられた食事が微かに湯気を立てていた。
「相手が眠っているとはいえ、了承もなく男の部屋に入るのは気が引けたのだろうな。ユニコーンが力を託すだけのことはある」
くつくつと喉の奥で笑うオリジンの言葉に、何故部屋に入ってこなかったのかというクラースの素朴な疑問は解決された。
アーチェならばノックをして返事がなければ躊躇いなく入ってくるのだろうが、確かにミントならそれも有り得る話である。
扉の前でトレイを持ったままおろおろとする姿は想像に難くなく、実に彼女らしく微笑ましい。
脳裏に浮かんだその光景に和みかけたクラースの心は、しかしすぐに新たな疑問に支配された。
オリジンは事も無げに言っているが、それはつまり。
「ちょっと待て、という事は‥‥まさかずっと見ていたのか?」
そうでなければ、ミントがそんな状態になっていても気が付くはずもない。
何ともいえない表情を浮かべるクラースの質問に、対するオリジンはさも当然のように答えを返した。
「以前にも言ったはずだ。我は常に主と共に在る」
まさか忘れたというのかと眉を寄せるオリジンに、クラースは小さく首を振りながらがっくりと項垂れた。
何かにつけて言われるのだから忘れようもないし、あれだけ事あるごとに姿を現されれば嫌でも実感せざるを得ない。
しかし改めて言葉で肯定されてしまうと、分かっていたとはいえ何とも言えない恥ずかしさがあった。
「精霊を統べる王たるお前が、たかが一人の人間をいちいち気に掛けていていいのか?」
「おかしな事を言う。我と主は既に指輪による盟約をも超えているだろう」
照れ隠しに厭味がましい言葉を投げ掛けても、それをただ受け止めるオリジンが返す言葉は常にその上をいっている。
くすりと笑いながらこれ見よがしに胸元に滑らされた指先に、瞬時に赤面したクラースは慌てて布団を手繰り寄せた。