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□おでこ騒動
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「クラースさんがセクハラ?」
「ああ。俺だけじゃなくてミントやすずちゃんにまでやったらしいぞ。アーチェの奴が怒り狂ってたからな」
自主鍛練を終えて戻ってくるなりチェスターに捕まってロビーの片隅へと引き摺られ、何事かと思えばクラースの奇行について聞かされたクレスは、きょとんと目を丸くしたまま首を傾げてチェスターを見つめた。
というのもその奇行の内容というのが、相手の額の匂いを嗅ぐというものらしいのだ。
確かに意味の分からない行動ではあるが、女性陣はともかく同性であるチェスターがそれをセクハラだと言うのはクレスには何だか妙なように思えた。
「別にお前達の関係に首を突っ込む気はないけどよ‥‥クレス」
「な、何だよ」
いやに真剣な表情で肩を掴んでくる親友の姿に、思わず怖じ気付いたクレスが一歩後退する。
それ以上を許さないかのように一層両手に力を入れながら、チェスターが眉間に皺を寄せ辺りを気にしながら小声で囁いた。
「もしかして旦那、欲求不満なんじゃないのか?」
「え?」
「まさかお前、妙な嗜好に目覚めたとかじゃないだろうな‥‥? 毎晩毎晩旦那に寸止めとか、焦らした挙げ句そのまま放置とか‥‥」
「す、す、するわけないだろそんな事!! チェスター、僕を何だと思ってるんだよ!?」
あまりにも直接的な言葉に、瞬時に顔を真っ赤にしたクレスが人目も憚らず大声で否定する。
すぐに今自分がいる場所を思い出し慌てて肩を竦め小さくなる姿に、そんな事をしても大声を出した事実は変わらないだろうと思いながら、チェスターはほっと安堵の息を吐いた。
「その様子じゃ、本当にそういうことはなさそうだな」
「あ、当たり前だろ!」
「でもよ、欲求不満じゃなかったら何なんだよ?」
「僕に聞かれたって‥‥」
困ったように首を竦めるクレスには本当に心当たりがないようで、チェスターはそれ以上の追及を止める。
クラースと共に過ごしている時間が最も多いクレスにすら分からないことが、自分達に分かるはずもないのだ。
肩を掴んだままだったことに気付き解放してやると、クレスはどこか安心したような表情を見せた。
「ま、旦那のことはお前に任せるからよ」
「えっ、僕一人?」
「明日からも同じことされたんじゃ困るだろうが」
「そりゃそうだけど‥‥」
あまり自信がないのか、心配性な上にお人好しでこういった役割を率先して引き受ける彼にしては珍しく渋るような態度を見せる。
しかしクラースの本音を一番聞き出しやすいのは誰かと聞かれたら、恐らく全員が迷うことなくクレスだと答えるだろう。
彼に任せるというチェスターの判断は極めて合理的であり、それは偶然ではあるが他の三人がそれぞれに導き出した解決方法と全く同じものだった。
「自分の恋人の問題くらい責任取って解決しろっつーの」
「チェ、チェスター‥‥っ」
からかうように肘で小突いてやれば、律儀に頬を染めながら言葉を詰まらせる。
クレス自身から聞いた話によれば自分が合流する前から付き合っているというのに、未だにこうしてウブな反応を見せる親友の姿はチェスターのよく知る彼そのもので、それがチェスターをひどく安心させた。
「ほら、まだ夕飯まで時間もあるしそれとなく探ってこいよ」
「えぇ!? い、今すぐ?」
「善は急げって言うだろ?」
心細いと言いたげに眉を下げるクレスの、今は鎧もマントもない無防備な背中を、階段のある方向へと促すように強く押してやる。
急かすようなチェスターの言葉と行動に、クレスは渋々その一段目へと足を上げた。
幾つも並ぶ扉の内のある一つの前で、クレスは途方に暮れたように佇んでいた。
自分達の部屋に、まして彼がいる部屋に入ることをこれほど憂鬱に思ったことなど一度もない。
「‥‥欲求不満‥‥」
つい先程、眉を顰めたチェスターから言われた言葉。
無意識に口に出してしまったそれは音という明確な形を得たことでよりクレスの意識を侵食し、思考をマイナスの方向へと導いていく。
チェスターにはああ言ったものの、その可能性を絶対的に否定する自信をクレスは持ち合わせていなかった。
今まで全く気にしていなかったにも関わらず、だからこそ、指摘をされたことで生まれた不安は急速に広がり彼を取り込んだ。
これまでの旅の中で少なからずそういった行為に及んできたが、クラースが不満を訴えたことは一度もない。
終わった後の心地好い気だるさの中で溢れる愛しさに任せてその髪を梳き口付けを落とせば、照れ臭そうにしながら彼はいつでも温かく微笑んで答えてくれた。
だから、彼も満足してくれているのだと。
自分と同じく、この例えようのない幸福感と充足感に包まれているのだと。
クレスはそう信じて疑わなかった。
しかし考えてみれば、自分のような二十にも満たない子どもを相手に、良くも悪くも大人である彼がそんな不満をあからさまに出すはずもない。
クラースの性格を考えれば尚のこと、もし満たされていないとしてもそんなことはおくびにも出さず自分に笑いかけてくれるのだろう。
決して想像のつかない可能性ではなかったにも関わらず、チェスターからきっかけを与えられるまで考えもしなかったのだ。
そんな自分がひどく傲慢で独り善がりなように思え、クレスは湧き上がる自己嫌悪に知らず唇を噛んだ。