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□おでこ騒動
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「旦那ぁ、頼まれてた物買ってきたぜ」

「ああ、すまないな」

ノックはしたものの返事も待たず扉を開けると、傾きかけた太陽の柔らかな光に包まれた窓辺でクラースはいつも通り読書をしていたようだった。

手近な机に荷物を置き、自分用とクラース用、そしてクレス用と中身を仕分けする。

袋の中でくしゃくしゃになっていたメモを広げ買い忘れがないか一つ一つ確認していると、背後でクラースが立ち上がる音がした。

そのままゆったりとした足音がこちらへと近付いてきて、ちょうど自分のすぐ後ろの辺りでぴたりと止まる。

「チェスター」

「あ? ‥‥‥むぐっ」

名前を呼ばれて振り返ったチェスターは、何の前触れもなく突然口に押し込まれた何かに驚いて目を丸くした。

少し固いそれを噛み砕いてみると、ぽろぽろと崩れていく粉っぽい感触と共に優しい甘さが舌を通じて口の中に広がっていく。

飲み込みながら目の前の相手を睨むと、彼はまるで悪戯が成功した子どものように楽しげに口角を上げていた。

「窒素させる気かよ」

「クッキー一枚で窒素した話なんて聞いたことがないな」

「食べさせんなら普通にやれっての」

とは言うものの、普通に食べさせられたらそれはそれで自分の精神的にあまり良くないような気がするとチェスターは思い直す。

何よりそれがクレスに知られたりした日には、あの爽やか光線でも放ちそうな邪気のない輝く笑顔で何を言われるか分かったものではない。

そんなチェスターの内心の葛藤など知る由もないクラースは満足そうな笑みを浮かべたまま、左手に持っていた小さな包みを彼へと手渡した。

「ここの奥方が菓子作りが趣味らしくてな、さっき主人から貰ったんだ。クレスと分けるといい」

「旦那は?」

「私はいい。そこまで甘い物が好きなわけでもないしな」

確かに彼の分の菓子やデザートをアーチェが貰い受けている姿をよく見るのだから、その言葉は遠慮からくる嘘というわけでもないのだろう。

そう判断し、チェスターは有り難く彼の好意を受け取ることにした。

クレスは毎度の如く一人街外れで鍛練に勤しんでいるはずだから、疲れて帰ってきたところにこれを渡せば喜ぶだろう。

一旦それを机の端に置き、とりあえず自分の荷物を整理してしまおうとチェスターは道具袋を手に取った。 

「‥‥あぁ、そうだ」

それを真似るように自分の道具袋を片手に仕分けされた荷物へと手を伸ばしかけたクラースが、ふと何かを思い出したように顔を上げる。

それに反応して同じように自分の荷物へと伸ばしかけていた手を止めたチェスターは、その横顔が思った以上に近くにあり内心で狼狽えた。

「チェスター、悪いが少し協力してくれないか」

「協力? 別に構わねぇけど‥‥」 

どことなく居心地の悪そうなチェスターの様子に、しかしその元凶たる相手は気付く様子もない。

何をすればいいのかと訴える視線を受け、クラースはその疑問を制するように軽く手を上げてみせた。

「ああ、ただじっとしていてくれればいいんだ」

「何だよそれ?」

訝しげに眉を寄せたチェスターの、浅葱色の瞳が次の瞬間大きく見開かれる。

元々近すぎる位置にあるクラースの顔が、そのなけなしの距離を更に縮めてきたのだ。

「お、おい‥‥っ!?」

慌ててその身体を押し返そうと思ったものの、急かす意思に反して腕は全く動かなかった。

まるで動力の全てを脳に持っていかれたかのように、腕は勿論足でさえ言うことを聞かず、後退り距離を取ることも叶わない。

すぐに視界は不鮮明なものになり眼球はその働きを十分に果たさなくなったが、瞼すら動くことを忘れてしまったかのように、チェスターの目は自分より幾分暗いその肌の色をただ映していた。 

「‥‥ああ、成る程‥‥やはり個人差があるものだな‥‥」

呟くような低い声が鼓膜を震わせ、言葉を乗せた吐息が額から鼻筋へと肌を滑る。

その熱に誘発されるようにチェスターの頬が真っ赤に染まる頃には、既に彼の視界は元の鮮明さを取り戻していた。

ろくに働かない思考の隅で、目の前にある男にしては長めなように思える睫毛も髪と同じ銀色だということをぼんやりと認識する。

よくよく考えれば当然のことではあるのだが、チェスターには普段より鈍い意識の中でも何となく新鮮な発見のように感じられた。

目的を果たしたクラースは再び机の上へと手を伸ばし、手際良く荷物を道具袋へと収めていく。

すぐ隣の存在がぴくりとも動けない状態になっていることに、しかし彼は全く気付いていないようだった。 

「私は一足先にシャワーを浴びてくるとするよ。お前も疲れただろう、夕飯まで休むといい」

やがて帽子を取りタオルを手にしたクラースが、備え付けのバスルームへと続く扉を開けながらチェスターへと声を掛ける。

チェスターが自分の身に起こった出来事を理解し更なる混乱に頭を抱えたのは、扉越しに微かな水音が聞こえ始めてからのことだった。







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