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□おでこ騒動
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「きゃあッ!?」
「おわっ!?」
「いたた‥‥ちょっとぉ〜どこ見て‥‥‥ありゃ、クラースじゃん」
階段を上がりきった瞬間に何かとぶつかり、寸での所で体勢を立て直し何とか落下を免れる。
危うく大怪我をするところだったと冷や汗を流しながら顔を上げ前方を見ると、ピンク色の髪をした少女が床に尻餅をついていた。
その傍らに無造作に落ちている箒を見ておおよその状況を把握をし、クラースはあからさまに眉間に皺を寄せる。
「それはこっちの台詞だ。屋内を箒で飛ぶ奴があるか!」
「だぁってぇ、ミント待たせてるんだもん。いちいち階段降りていくのめんどくさいじゃん?」
「若いくせに何を言っているんだ‥‥」
甘えるような声音で頬を膨らませるアーチェの言葉に、クラースが疲れたように息を吐く。
確かに今日の部屋はこの大きな宿の四階であり、一階に向かおうとしているアーチェの言い分は分からないでもない。
分からないではないが、しかし十代の若者が言うことでもないだろうというのが三十路手前のクラースの認識である。
「あーもう、大丈夫だったすずちゃん‥‥‥あれ?」
ベルト越しに腰を撫でながらくるりとアーチェが後ろを振り返り、そのままきょとんと首を傾げる。
アーチェが振り返った先には誰の姿もなく、クラースは訝しげに眉を寄せた。
「すずも一緒だったのか?」
「うん、後ろに乗ってたはずなんだけど‥‥すずちゃん?」
立ち上がり誰もいない空間へと呼び掛けるアーチェを見ながら、クラースは嫌な予感に襲われ勢いよく後ろを振り返った。
もしかしたらあの小さな身体は衝突の衝撃で放り出され、自分の横を通り抜けて階段下へと真っ逆さまに落ちてしまったのではないか。
しかしそんなクラースの心配を無用だと突き放すかのように、振り向いた先には薄暗い階段と踊り場が広がるだけだった。
それにほっと安堵したものの、しかしそれでは彼女がどこへ行ってしまったのかという疑問が解決されていない。
きょろきょろと辺りを見回すアーチェに倣い、クラースもその隣に立って些か大きめな声で呼び掛けた。
「すずちゃーん?」
「すず? どこだ?」
「すずは此処に」
「うひゃあっ!?」
突然すぐ後ろから掛けられた声にクラースが息を呑み、アーチェは素頓狂な声を上げてひっくり返る。
二人が振り返った先にはいつもの通り、まるで仮面を張りつけたような無表情ですずがちょこんと立っていた。
「す、すず‥‥どこにいたんだ?」
「クラースさんの姿が見えましたので、あのままではぶつかると判断し天井に避難していました」
「わ、分かってたんなら教えてくれたって‥‥」
「私もそうしたかったのですが、間に合う状態でもありませんでしたので」
特に悪びれる風もなく、かといって正面衝突した二人を面白がる風もなく、まるで台本を読み上げるかのように淡々とすずが言う。
この幼さにおよそ似つかわしくない冷静さは普通の人間なら目を見張るものだが、旅を共にするクラースとアーチェにとっては何も変わったことはない、至って普通の見慣れた姿だった。
「ま、いいや。すずちゃん行こ、ミント待ってるしさ」
「はい」
「じゃあねクラース!」
さすがに反省したのか今度は箒に跨がることはなく、代わりにアーチェの手がすずの小さな手を優しく繋ぐ。
空いている方の手を振って別れを告げ歩き出した彼女の足は、しかしその相手に肩を掴まれたことで強制的に止められた。
「わわっ‥‥あっぶないなぁ、何よ?」
「ああ、すまん‥‥いや、大したことじゃないんだ。すぐ済むから少し付き合ってくれ」
「だから、あたし達これからミントと出掛けるって‥‥」
アーチェの不満などまるで気にしていないかの様に受け流し、クラースは彼女の隣に立つすずに目線を合わせるよう腰を落とした。
少し不思議そうな色をその表情に乗せてこちらをじっと見つめてくるすずに安心させるように微笑みかけ、クラースの指先が彼女の豊かな前髪をそっと左に流す。
「なっ‥‥!?」
次の瞬間目の前で繰り広げられた彼の行動に、アーチェは文字通り言葉を失った。
彼女の位置から見る限りでは、クラースがあろうことかすずの目元に口付けを落としたように見えたのだ。
「‥‥ふむ、成る程‥‥ミントとは違うんだな‥‥」
びしりと固まった場の空気に気付いていないのか或いは気にしていないのか、クラースは何事もなかったかのようにすずから離れ立ち上がる。
確かめるように小さく呟かれた言葉で漸く我に返り、アーチェはわなわなと身体を震わせた。
「な、なっ‥‥クラース、あんた‥‥」
「どうした?」
「最っっ低! よりにもよってすずちゃんなんて! 自分の歳考えなさいよ!!」
「は?」
良くも悪くも耳に響く声を持つアーチェの怒号に不快そうに顔を顰めながら、しかしクラースの表情には疑問符が浮かんでいる。
すずを見てみれば珍しくその目を真ん丸に見開いて驚きを顕にしていて、目の前のクラースの態度も重なりアーチェの怒りは更に跳ね上がった。
「人の目の前でやっといて何とぼけてんのよ! しかもミントとは違うって、あんたまさかミントにまで‥‥ッ」
「何を怒っているんだ? そんなことより、お前さんも確かめさせてくれ」
「何ってあんたっ‥‥は? あ、え‥‥?」
理解出来ないと言いたげに首を傾げたクラースの手が今度は自分へと伸ばされ、アーチェは直前までの怒りも忘れて混乱に目を丸くした。
頬に添えられた左手と同じ優しさで右手によってふわりと前髪を掻き上げられ、普段は髪に隠れているそこに触れる外気が妙な心地だった。
広い鐔に隠されて普段はあまりよく見えない顔が目の前までやって来て、思っていたよりも端正なそれに思わずアーチェが怯む。
その隙をまるで狙ったかのように、クラースは彼女の額へと鼻先を近付けた。
眉間から鼻筋にかけて感じるクラースの吐息の熱さに、理解の許容量を超えたアーチェの頭はパニックを通り越えて石化する。
匂いを確かめるようにくんくんと鼻を鳴らした後すぐに彼は離れたのだが、すっかり硬直してしまったアーチェはそれに何の反応も返すことが出来なかった。
「時間を取らせて悪かったな。‥‥ああ、ミントにも言ったが、あまり遅くならない内に帰ってくるんだぞ」
「‥‥‥はい」
辛うじて復活し律儀に返事をするすずの隣で固まるアーチェが悲鳴のような大声を上げたのは、クラースが去った後暫く経ってからだった。