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□暖かな悪夢
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「ん、むっ‥‥んぅ―――‥‥!?」

驚いて反射的に開いた唇の隙間から、まるで狙っていたかのように熱を持ったそれが潜り込んでくる。

不快な酸味と鉄臭さで充満する中を気にする様もなく、肉厚のそれは未だ粘膜に張りつく血を舐め取るかのようにゆったりと這い回る。

あまりにも異常な事態に思考回路はまともな働きを失い、とにかくこの状況から逃れようと咄嗟に両腕を持ち上げた。

途端に襲い掛かる鋭い痛みに幾度も邪魔されながら、それでもやっとの思いで相手の肩を掴むことに成功する。

しかしそれだけで精一杯な彼の身体ではその上相手を、まして自分よりも体格の良い身体を突き飛ばすことなど出来るはずもなく、肌触りの良いその外套を弱々しく握り込む程度の反抗しか叶わなかった。

「んんっ‥‥ふ、ぁ‥‥んむ、うぅ‥‥ッ」

歯列を辿るようになぞり、奥に逃げ込むそれを巧みに引き出し絡め取る。

時折生まれる隙間から漏れ出す水音は湿り気を帯び、吐息混じりの自分の声はまるで甘えるような響きを滲ませていて、いっそ耳が聞こえなくなればいいとクラースは心の底から願った。

しかしそう都合よく感覚が遮断されるはずもなく、辺りに響くそれらが羞恥と屈辱にいたぶられる彼の精神を追い詰めていく。

まるで世界から、それ以外の音は全て消えてしまったかのようだった。

「はッ‥‥や、め‥‥んぅっ‥‥あ、ふ‥‥」

飽きることなく続くそれは深まるばかりで、絶対的な酸素の不足にクラースの元より乱れていた呼吸が更に弱々しくなっていく。

許容量を超えた唾液は彼の唇から次々と溢れ出し、彼自身の首筋や彼の顎を支えるダオスの指先を静かに濡らす。

朦朧とする意識に瞳はとろりと光を溶かし、力の抜けた指先はもはや辛うじて引っ掛かっているだけだった。

それまでの微かな抵抗すらなくなったことで興を削がれたのか、或いはそれに満足したのか、こちらの誘導に逆らわず従順に伸ばされたクラースの舌に緩く噛みつくと漸くダオスは彼を解放した。

離れても尚小さく開かれたままのクラースの唇の、その端から零れた滴が乾いてこびりついた血を浮き上がらせる様を見て、濡れて艶を増したその唇がほんの少しばかり愉快そうに歪む。 

混ざり合った唾液が名残惜しげに互いの間を繋いだものの、それは程無くして重力に従いぷつりと切れた。 

「ッは、はぁっ‥‥は‥‥っ」

唐突に流れ込んできた充分量の酸素に肩を上下させながら、苦しげに呼吸を繰り返すクラースの身体がぐったりと弛緩する。

背を預ける大木から重心が逸れぐらりと傾いた身体はしかし地に伏せることはなく、代わりの支えとなった腕の主によってふわりと抱き上げられた。

「な‥‥っ!?」

驚きに目を剥くクラースを気にも留めず、ダオスは彼を抱えたままゆっくりと歩き出す。

膝裏に腕を差し入れられたために必然的に膝を曲げる形になってしまい折れた左足が酷く痛んだが、今のクラースにはそんなことは極めてどうでもいいことだった。

想像し得る範囲を遥かに超えた出来事に次々と見舞われながら、しかし彼の頭は幾らかの冷静さを取り戻していた。

今の自分の状況を簡潔に説明すれば、つまり、ダオスに口付けをされた挙げ句それどころか横抱きにまでされている。

男である自分が、しかもよりにもよって倒すべき敵である男から、まるで女のような扱いを受けているのだ。 

先程の屈辱的な出来事すらまだ消化出来ていない彼にとって、この仕打ちは到底許容出来る範囲のものではなかった。

「何を、するっ‥‥離せ‥‥ッ」

「騒ぐな。死にたいか?」

ひたりと告げられたその冷たい言葉に嘘はないらしく、見下ろしてくる瞳は冷酷無比な魔王のそれだった。 

抑揚も温度もない声で告げられたその言葉に、クラースは恐怖とは別の感情で息を呑んだ。

まだ、自分は生きている。 

奇跡的に助かったともいえるこの命を、下らないプライドで無に帰してしまうのはあまりにも馬鹿げているように思えた。

クラースの脳裏に、旅を共にする大切な仲間達の姿が浮かぶ。

そのどれもが表情や雰囲気にまだ幼さを残していて、そんな子ども達に世界中の期待が押し付けられている現実を思い返す。

せめて自分が出来得る限り、守ってやりたいと思った。

その幼い笑顔を汚す、生臭い魔物の血から。

その細い肩を押し潰す、一方的な重圧から。

その温かな心を曇らせる、避けようのない痛みから。 

絶え間なく襲い来るありとあらゆる苦難の、その全てから守れるなどとは思っていない。

たとえ彼らが受ける傷の、ほんの一部分でしかないとしても。

それでも自分が盾になれるなら、それで少しでも彼らを守ることが出来るなら、そう在りたいと願った。

ふと、自分に向かって必死に手を伸ばしてきた少年の姿を思い出す。

彼はきっと、自分が魔術書と指輪を託した理由に気付くはずだ。

それでも困ったほどに優しいあの少年は、仲間を助けることが出来なかった自分を責め、己の力不足に原因を求めその繊細な心を傷つけてしまうだろう。

それでは全く以て本末転倒である。

どんな生き恥を晒しても、それでも自分は帰らなければならない。

生き延びて、この男と戦わなければならないのだ。

「まだ死ねないのだろう?」

まるで心の内を見透かしたようにそう言って、ダオスは再び視線を元へと戻す。

クラースは何も言い返すことなく、せめてもの抵抗に表情を見られないよう深く俯いた。







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