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□暖かな悪夢
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「な、何を‥‥!? どういう、つもりだ‥‥っ!?」
反射的に起き上がり問い質そうと声を発して初めて、つい先程まで自分を苦しめていた胸の痛みが殆ど感じられないことに気付く。
呼吸すら苦痛だったはずが、こうして声を荒げることが出来ている。
身体を起こしたことで両の腕と足は変わらず激痛に襲われたが、胸の痛みだけは嘘のように軽くなっていた。
この行為の奥にある意図を探ろうとするかのように、クラースの瞳が未だ自分を見下ろすばかりの魔王を射抜く。
しかし彼の聡明な思考をどれだけ巡らせても、攻撃こそすれ治癒を施す理由など皆目見当がつかなかった。
「‥‥随分と‥‥酔狂な、ことだ‥‥私が何者か‥‥分か、っている‥‥だろう‥‥?」
胸の負傷が軽減されたといえ、痛みに軋む身体は変わらない。
荒い呼吸に阻まれながらも揶揄するように投げ掛けられたクラースの言葉にも、しかしダオスは眉一つ動かすことはなかった。
「己が信念を持ち戦う者には全力で相手をする。それが私の礼儀だ。例え貴様等のような下等な生命体とて、それを欠くことはない」
淀みなく語られるそれはまるで優れた指導者のようで、世界の脅威とされる男の言葉にしては些か不可思議のように思える。
しかし同時に、何故かいかにも彼らしいようにもクラースには思えた。
「召喚の出来ない貴様では相手にもならぬ。殺す価値もない―――それだけだ」
冷笑するような響きで以て繋がれたその言葉は、しかし大した抵抗もなくすとんとクラースの中に落ち着いた。
クレスに自らの命ではなく魔術書と指輪を押し込めた袋を託したのは、確かに咄嗟の判断ではあったが正しい決断であったと思える。
クラースにとって、最優先すべきは己が召喚士であり続けることだった。
例え腕や足の一本が使い物にならなくなったとしても、召喚を行うことは可能である。
しかし逆に、例え五体満足であっても、魔術書や指輪を失ってしまえば自分はただの人となってしまうのだ。
クレスやチェスターのように武道の心得などないクラースにとって、召喚術とは彼が持ち得る唯一にして最大の力であった。
それは戦うための力であり、守るための力である。
クレス達と旅を続ける上で、何に変えても、しがみついてでも手離してはならない力である。
それを失うことが何よりも恐ろしく、だからこそクレスにそれを預けたのだ。
自分が最も信頼する、力強く優しいあの掌に。
そしてその結果、今のクラースは何の力も持たない、あまりにも無力なただの人だった。
魔王と恐れられるこの男は、目的のためなら手段を選ばず、ただ利己的に他者を利用することに何の躊躇いもなく、己の行く手を塞ぐ者は容赦なく薙ぎ払う。
それでいて無益な争いは好まず、悪戯に命が失われることを良しとしない。
戦えるだけの力を備え敵として相見える自分でなければ、彼にとって攻撃の対象にすらならないということなのだろう。
そう判断出来る程度には、クラースはダオスという男を理解しているつもりだった。
しかし、それならばただ放っておけば良いだけのこと。
攻撃されない理由は理解出来ても、施しを受ける理由はやはり全く分からなかった。
「だから、助ける‥‥というのか? 随分と‥‥殊勝な心掛け、だな‥‥っ」
所詮何の返答もないと知りながら、クラースは未だ整わない呼吸の中嘲笑混じりに吐き捨てる。
しかし予想と異なり、彼の言葉にダオスはすっとその目を細めた。
「―――図に乗るな、人間風情が」
温度のない言葉と共に、クラースの腹部に魔力を伴った容赦のない拳が撃ち込まれる。
鳩尾を抉られるような衝撃と内側で何かが潰れるような鈍い音を聞いた直後には、彼の身体は数メートル先の大木に打ち付けられていた。
「が、はッ‥‥っ!!」
痛みすら超えた衝撃に息が詰まり、反射的に開かれた唇から漏れた声は殆ど音になっていなかった。
脳味噌ごと振り回されるような感覚と、首を鷲掴みにされたような息苦しさ。
勢いよく込み上げてくる何かに耐え切れず項垂れ舌を吐くと、それを待ち構えていたかのように赤黒い血が逆流し噴き出した。
「うげっ、ぇ‥‥はッ‥‥ゲホッ、げほっ‥‥かはっ、ぁ‥‥ッ」
浅く短い呼吸を繰り返し、血液と胃液の混じったものを何度も吐き出していく。
己の吐いたもので赤く染まっていく服と草ばかりが支配していた視界に、ふと漆黒が映り込む。
力の入らない身体を叱咤して顔を上げるといつの間にかすぐ目の前にダオスの姿があり、自分と視線を合わせるように片膝を地に付けていた。
「貴様が生き延びたところで私に何の障害もない。容易く与えられるということはそれだけ取るに足らぬ存在ということだ」
無知な者を蔑むような声音に乗ったその言葉は、クラース自身の奥底にある劣等感を炙り出す。
精神を嬲られるような屈辱に怒りを顕にして睨みつけるクラースの顎に、先程腹を撃ったものと同じ指先がひどく優しく添えられた。
「―――‥‥ッ!?」
不可解なその行動に抗う間すら与えられず、気が付いた時には視界が塞がれていた。
否、正確には対象があまりにも近すぎて目が本来の機能を十分に果たすことが出来ずにいたのだが、それを理解出来るほどクラースの頭は状況に追いついていなかった。
ぼんやりと霞む視界に広がる、鮮やかな赤と金のコントラスト。
唇に押し当てられた、顎に触れるそれよりも幾分か高い熱。
クラースが漸く状況を理解したのは、血に濡れた唇に触れていた柔らかい何かがぬるりと這う何かに変わった時だった。