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□おでこ騒動
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「ミント」

空気を優しく撫でるような柔らかな呼び掛けに、名を呼ばれた少女―――ミントはゆっくりと振り返る。 

大人らしく落ち着きがあり、低いながらもどこか艶のあるその声が彼女は好きだった。

「何でしょう、クラースさん」

くるりと反転した視界の先にいたのは、やはり想像通りの人物だった。

宿の中なので鳴子は外されているものの、相変わらず帽子はきちんと被ったままのその姿。

アーチェは禿げ隠しだとからかうが、恐らく自分と同じようにもはや服装の一部と化してしまっているのだろうとミントは思う。

自分にとってもこの帽子は衣服の一部であり特に帽子を被っているという意識はないほど馴染んでしまっているため、服と同じように着替えや入浴等の時に初めて脱ぐものだった。

きっと彼もそうなのだろうと、ミントは誰に言うわけでもないが一人納得していた。

「どこか行くのか?」

「はい。こちらのご主人に、紅茶のとても美味しいお店があると伺ったんです。せっかくまだ明るいですし、アーチェさん達と一緒に行ってみようと思って‥‥」

「そうか、ゆっくりして来るといい。だがあまり暗くならない内に帰ってくるんだぞ。クレスが心配するからな」

「はい」

優しく目を細めて言うクラースに、ミントはにっこりと微笑んで頷いた。

以前うっかり街の散策に夢中になり夕食の時間を随分過ぎてしまった時、クレスが街中を駆け回り自分達を探してくれたことは記憶に新しい。 

見つかった時にクレスが見せた心底ほっとしたような笑顔はまだ彼女の脳裏に焼きついており、ミントは同じ失敗をしないよう荷物の中に時計がきちんと入っていることを改めて確認した。

あの時は宿に帰ってみればクレスと一緒に探しに出たチェスターがまだ戻っておらず、その為クレスが再び夜の街中に駆け出していく羽目になってしまって、自分達はせめてと二人の帰りを外で待っていて。

暫くして帰ってきた二人に謝りながら部屋へと戻ると、見計らったようにクラースが三人分の温かい食事をトレイに乗せてやって来て。

夕食は終わってしまったから宿の厨房を借りたという彼に、感動したアーチェが飛びついて。

彼女の手加減なしの体当たりにそのまま勢い良く倒れた彼はそれは強く頭を打ち付けて、何事かと飛び出してきたクレスとチェスターにすずが冷静に状況を説明して。 

いつものようにアーチェとチェスターの言い合いが始まり、クラースの頭にできた瘤に驚いたクレスが慌てて氷を貰いに行こうとして階段を踏み外し、助けようとしたすず共々転がり落ちて。

さすがというべきか何の怪我もなく綺麗に着地したすずが戻ってきてアーチェとチェスターの喧嘩を止めるのを聞きながら、自分はクラースの瘤とクレスの打撲に法術をかけたのだ。

そこまで思い返して、ミントは堪らずくすりと笑う。 

迷惑を掛けたのに不謹慎だとは思うものの、あの出来事は彼女の中でとても温かく優しい思い出の一つになっていた。

「あ、クラースさん、私に何か用があったのでは‥‥」

うっかりそのまま談笑を始めてしまいそうになったところで彼とこうして向き合っている理由を思い出し、ミントは首を傾げて目の前に立つクラースを見上げた。

クラース自身も自分が呼び止めたという事実を忘れていたらしく、あぁそうだった、とどことなく間の抜けた声を上げる。

「あぁ、いや、用事というほどでもないんだが‥‥」

そう言いながら、いつも深く被っているその帽子の鐔を僅かに押し上げる。

普段よりよく見える形になった銀の瞳を、ミントは純粋に綺麗だと思いながら見つめていた。

「すぐ済むから、少しじっとしていてくれ」

その言葉に返事をしようと開きかけたミントの唇がそのまま固まり、言葉を乗せるはずだった声は呼吸ごと喉の奥に引っ込んだ。

徐に伸ばされたクラースの両手が、彼女の頬を殊更優しく包み込んだのだ。

そのままゆっくりと彼の顔が近付いてきて、ミントはあまりの混乱に大きな目を更に丸くさせた。

自分の知る限りでは、彼は間違ってもスキンシップに慣れた類の人間ではなかったはずだ。

そんな彼が何故突然、それも他人の目がある宿屋のロビーで、こんなにも顔を寄せてくるのか。

ミントには全く理由が分からなかった。

しかし彼女の頭を支配するのは嫌悪の類ではなく純粋な混乱と動揺であったため、クラースの手を振り払うこともなくただ硬直してされるがままになっている。 

そうしている内にとうとう輪郭がぼやけてしまうほどに互いの顔は近くなり、クラースの吐息を頬に感じた瞬間、何となく次に来るものを理解した彼女はきゅっと唇を引き結び強く目を閉じて身体を強張らせた。

その瞬間。

「‥‥‥‥?」

予想とは全く違う感覚に、ミントは思わず固く閉じていた目をぱっと開く。

しかし視界は先程以上にぼやけていて、結局自分の目で状況を確認することは叶わなかった。

そうなると、代わりに言葉に表して確認するより他はない。

彼女は見えないながらおずおずと目線を上げ、何にも塞がれていない自由な唇を動かして問い掛けた。

―――何故か自分の額に鼻先を近付け、仔犬のようにくんくんと匂いを確認している男へと。

「あ、あの‥‥クラースさん‥‥?」

「‥‥ふむ‥‥」

ミントの困惑に満ちた声に気付いているのかいないのか、当のクラースは一人納得したように頷くとあっさりと彼女から離れていった。

元通りの距離を取り戻した二人の間で、二つの視線が混ざり合う。

片方はこれ以上ないほど困惑の色を浮かべ、対してもう片方には何故か清々しい色すら見て取れた。

「ありがとうミント、参考になったよ」

にこやかに片手を上げて去っていくクラースを茫然と見送った彼女が我に返ったのは、それから数分経った後のことだった。

「‥‥何だったのかしら‥‥?」

ぽつりと呟く少女に、答えをくれる者は存在しなかった。







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