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□暖かな悪夢
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命のやり取りである魔物との戦闘において、一瞬の油断は命取りになりかねない。
それは争いの中に身を置く者にとって考える以前の常識であり、この場にいる五人の人間と一人のハーフエルフは皆、それを身を持って理解している者ばかりであった。
彼らは確かに大抵の魔物を地に伏せさせるだけの力を持ち、一介の兵士などよりも余程戦闘に慣れていた。
それでも六人の内の誰一人としてその慣れから隙を生み出すほどの傲慢さは持ち合わせておらず、それこそが彼らが常に勝利を手にする大きな理由の一つであった。
戦闘とはつまり、想像し得るものからそうでないものまでのあらゆる可能性が転がる『現実』の中で0か1かの結末を奪い合う戦いである。
敗北と、それにもれなく附随する死。
それは常に背中越しにぽっかりと口を開けているものであり、一歩踏み間違えれば悲鳴を上げることも許されずに飲み込まれる。
魔術書を片手に次々と印を結ぶ男も、それを十分すぎるほどに理解しているはずだった。
しかし戦闘において、自らの命を削る要因は本人の油断一つではない。
敢えて最たる例を挙げるとすれば、その一つに『判断ミス』がある。
こればかりは運と経験によるものでしかなく、未然に防ぐというのも難しい。
自ら望んでミスをする者。
それが誤りであると知りながら尚その判断に従って行動する者。
そんな奇特な人物は存在しないか、或いは存在するとしたなら非常に稀な確率だろう。
「旦那、避けろッ!」
チェスターの鋭い声が響いたのと、クラースが己の頭上高くに降り下ろされる爪を見遣ったのとはほぼ同時だった。
子どもの腕ほどはあろうかという巨大な爪先の角度と、想定される衝撃の大きさと。
詩のように絶え間なく紡ぐ詠唱は止めないまま、瞬時にそれらを計算してクラースは右後方へと大きく飛び退いた。
弾き出した答えは正解だったらしく、魔物の鋭い爪は獲物を捕えることなく空しく地面を抉り、衝撃で飛び散った石や土塊がクラースの肌を傷つけることもなかった。
そのまま距離を取るように駆け出しながらも尚その詠唱が途切れることはなく、召喚の儀式は順調に終盤へと差し掛かる。
しかし、彼の計算には二つばかりの要素が欠如していた。
一つは、彼の移動した先が切り立つような崖の端部という最も不安定な場所であったこと。
そして、もう一つ。
魔物達の絶え間ない攻撃と、幾つもの強大な魔術や召喚術。
大きな力をあまりにも受け止めすぎた大地は、既にその限界を超えようとしていたのだ。
「!?」
魔物の攻撃から確かに逃れたはずの身体が、支えをなくしぐらりと揺れる。
しかし実際は支えをなくしたのは彼の身体ではなく、彼が踏み締める大地そのものだった。
「クラースさん!」
すずの珍しく取り乱した声音に全員がそちらを振り返り、驚きと焦りで一様にその目が見開かれる。
箒に乗ったアーチェがすぐさま飛んで行こうとするが、別の魔物に阻まれそれは叶わなかった。
「邪魔しないでよ! ‥‥テンペスト!!」
苛立ちを顕にした彼女の掲げた右手に導かれるように、突如現れた幾つもの竜巻が魔物を巻き込み切り刻んでいく。
目の前の敵に意識を持っていかれたままのアーチェの背後に迫る魔物の、その無防備な喉元にチェスターの矢が寸分の狂いもなく撃ち込まれた。
血を迸らせ呻き声を上げながら頽れる魔物の姿にほっと安堵したクラースの右足が、とうとう崩れ落ちる大地からすらも放り出される。
がくんと揺れる世界の端で、ばさりと音を立てて赤が舞った。
「クラースさんッ!!」
傾いた視界に突如飛び込んできたのはクレスであり、剣を握っているのとは反対の手が勢いよく伸ばされる。
反射的に身を乗り出し同じように伸ばされたクラースの手は、しかし別のもので塞がれていた。
「え‥‥?」
グローブ越しに触れた感覚に、クレスが思わず目を瞬かせる。
彼の手に託されたものはクラース自身のそれではなく、彼が抱えていた重々しい魔術書と小さな皮袋だったのだ。
クラースはクレスの指がしっかりとそれらを掴んだことを確認すると、一気に離れていくこの距離でも分かるほど明らかに安心したような微笑みを見せた。
「クラースさん‥‥っ!!」
「クレスさん、それ以上はだめ! 落ちてしまいます!!」
クレスの切迫した声と、ミントの悲痛な叫び声と。
轟音に掻き消されるそれらを微かに聞きながら、浮遊感と共に空を仰ぐ格好になったクラースは予想される衝撃に強く目を閉じた。