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□Fate〈T〉
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「こんばんは」
その言葉が自分に向けて紡がれたと気がつくのに、数秒を要した。
なぜかひどく人恋しくなった今日は、ひとりきりの部屋にまっすぐ帰る気にもなれず、普段ならあまり頼らないアルコールに助けを求めて自宅アパートから少し離れた所にある小さなバーに来ていた。
金曜の夜でそこそこ客がいたのでカウンターに席を決め、甘めのカクテルを数杯空けてちょうどほろ酔い加減でいたところに、声を掛けられたのだ。
声のした後方を振り向けば、微笑みながら左隣の席へ自然と腰掛けたのは。
「……あ、」
思いがけない、しかし待ち焦がれていた再会だというのに間の抜けた一言しか出てこない自分を呪いたくなった。
仕立ての良いダークスーツに濃藍のイタリアンカラーシャツを合わせ、少し長めの黒髪を自然にサイドに流した細身の男性。
ウィスキーを頼んでそして少し目尻の下がった優しい瞳を細めてまた私を見た。
心臓が跳ねた。
こんな夜に、こんなところで出くわすなんて思いもしなかったから、私の思考は混乱している。
アルコールも手伝って脳の処理スピードは遅く、反比例して心拍数は半端なく早い。
「こ、こんばんは。あの、お花屋さん、で……」
「ええ。良かった、覚えていていただけたみたいですね」
綺麗な発音で心地よい低音を響かせ、聴覚まで酔わされる。
そうだ、ずっと聞きたかった、この声。
覚えているも何も、初めて出逢った日から彼のことを想わない日はなかった。
ひと月ほど前、友人の誕生日プレゼントにする花束を求めに向かったフラワーショップで、色彩豊かな花々をバケツの合間を縫って選んでるところで、すれ違い様にぶつかったのだ。
『あぁ、失礼しました。大丈夫でしたか?』
『……は、あ、大丈夫ですっ、私こそすみませ――』
『いえ。では』
たったそれだけの会話。
それでも夕日が細く射し込む店内で、目が釘付けになったのを覚えている。
立ち居振る舞いが紳士然としていて、私だけでなく店員に対しても礼儀正しくて。
そして何よりもその容貌が、男性なのに繊細で美しく。
でも。それだけではない何か。何かで彼は纏われているように思えた。
彼の周りに漂う空気が、あんなに美しいのに、重い。
日常には似つかわしくない、足がすくむ奇妙な感覚。
それでいてもう彼から目を逸らすことなど不可能な、鮮烈。
魅せられた。
ただ彼を知りたいと思った。
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