短編小説

□たった1つの願い
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熱に酔う重い瞼を開けば、瞳に薄暗い部屋が映った。


それはいつもより視界が狭くぼやけているが、確かに自分の部屋。
だけど包む空気は、いつもと違いどんよりとしている。


何故なのだろう。
思考するも熱に犯された頭では何も浮かばずに空回る。

ああ、これは夢なのかもしれない。
ただそれだけが頭の中に浮かんで消えた。

「どうか……」


嘆くような小さな声。
それが静寂という名のどんよりとした空気を裂いて響く。

その声の主を瞳だけ動かし探る。
すると見知った若い武士が俯き、俺の側に座っていた。

ただ、見知った彼とは少し違っていた。


「どうか、私の命と引き換えでも構いません。だからもし、神がいるのならばこの方の命をお救い下さい……」


彼の足に置かれたその拳が小刻みに震え、キツく閉じられた瞼から溢れた一筋の雫が頬を伝う。

そんな彼の発した言葉でこの部屋を包むどんよりとした空気の理由をやっと理解した。

『俺が死ぬ』

それは熱に犯された頭でも容易に理解し、納得の出来る答えだ。
故に、普段泣くことのない彼が涙を流す。至極単純明快な理由である。


ただ、実感や恐怖がないのは熱のせいだろうか。

まあ、それもいい。

俺は彼から視線を外し、ゆっくりと瞳を閉じた。

広がる世界は闇となり、意識が闇に落ちたような浮遊感。

その中でも確かに聞こえる彼の声で、俺はまだ生きているのだと実感する。

人はいつか死ぬ。
それが自然の成り行きだ。

ならば俺がここで死ぬのも仕方ない。


そう思えば多少の悔いも流せる気がした。

だが1つだけ、本当にただ1つ。後悔、というより願いに近いものが心に残る。


今泣いている彼の笑顔を、1度は見たかったな、と。


普段の彼は泣かないし、笑ってもくれない。
それどころか仏頂面ばかりで、唯一表情が変わるのは決まって俺を叱る時だ。


そんな彼が泣いている。

そうなれば笑った彼を見たいと思うのも仕方のないことだろう。

だが生憎、俺はもう死ぬ。
故にただ1つの願いとして、思いとして、心に残ってしまう。


ああ、笑ってほしかった。


闇に意識を託す直前に心で呟く。


もし今、最後の願いが叶うならお願いだ。
俺の命なんかどうでもいい。ただ、彼を笑顔にしてやってくれ。
俺のために泣いている彼を、もう悲しませないでやってくれ。

そして俺は闇に意識を託した。




end

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