小話

□幸せのある場所
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咲き乱れるチューリップの花畑の中から、オレはごそりと顔を出して空を見た。
「雨降りそう」
呟いて、手近なチューリップの花の中に潜る。花びらを閉じてしまえば、降ってきたとしても濡れることはなかった。

オレは、そこで暮らしている。名前はない。だって気づいたときから一人だから。チューリップが名前をつけてくれるわけもなく、一人ぼっちだから特に不自由もなく。なのでないままだ。
集めた蜜を頬張りながら、降りだした雨の音を聞いた。やむまではここから出れないが、特に用事があるってわけでもないので気にしない。オレは寝ることにして、横になって目をとじた。

オレが何者なのか、オレにもよくわかってなかった。きっと花につくアブラムシとか、そんなようなもんなんだろう。嫌だけど。
花畑の暮らしは不自由もなく、話し相手がいないのが寂しいくらいで他に不満はなかった。背が高くて茎がつるりとしたチューリップによじ登るのがちょっと疲れるので、できればもう少し身長がほしい。いやもう少しと言わず、たくさん。かなりたくさん。切実に。





目を覚ましたら、雨はやんでいて外は夜だった。月が明るかったので、花から出て地面に飛び降りた。オレは一応元気な男の子であるので、晴れたら外で遊ばなくてはならない。昼も夜も関係ない。夜遊びを見咎める存在はオレにはいない。

が、そのときは出たことを後悔した。飛び降りたすぐ近くに、知らない奴がいたからだ。
そいつはオレを見て、にやりと笑った。
「こんばんは。いい天気だね」
「………こんばんは」
用心しながら答えるオレを、そいつはじろじろ眺めた。葉っぱの陰の薄暗い場所にいるそいつの瞳は赤く光っている。
「……あんた誰だ」
視線に耐えきれなくなって聞いたオレに、そいつの笑みが深くなった。
「オレはヒキガエルのエンヴィー。あんたは?」
「オレは………」
あ、そうか。名前がないんだった。
「えーと…」
困ってよそを向くオレに、エンヴィーは笑って手をあげた。
「いいよ。名前がないやつなんていくらでもいる」
あ、そうなの?オレはちょっとほっとした。世界で自分だけだったらどうしようとか思ったところだったので、なんか安心。
その気の緩みを、そいつは見逃さなかった。いきなり目の前に来たかと思うと、素早くオレを肩に担いでエンヴィーは歩き出した。
「なにすんだテメェ!」
「いやー、こんなに可愛い子は初めて見たからさ。持って帰って飾っとこうかと思って」
「飾るってなんだ!剥製にでもする気かよ」
「いや、そんなグロい趣味ないから。いいじゃん、オレと楽しく暮らそうよ」
エンヴィーは笑ってから走り出した。花畑を出て野原を抜け、見たことのない場所を駆けていく。
どうやらオレは誘拐されたらしい、と冷静に分析している間に、エンヴィーは木々の茂みをかき分けて山の奥へと進んでいく。澱んだ水の匂いがして、沼地に向かっていることとそれがかなり近くなっていることがわかった。こいつの住み処だろう。
そんな湿気た場所に行くのは嫌だ。オレは必死で暴れた。
「暴れると落っこちちゃうよ」
「うるせぇ!離せ誘拐魔!」
「人聞き悪いなぁ」
細っこい体のどこにそんな力があるのか、エンヴィーはオレをしっかりと担いだまま沼地に出た。独特の匂いに顔をしかめるオレを水に浮いた大きな葉っぱに乗せたエンヴィーは、水の中に入って葉っぱを引いて泳ぎ始めた。
すいすいと迷いなく目的地を目指すエンヴィーを睨んで、オレは悩んだ。泳ぎは得意じゃないから、飛び込んでもすぐ捕まるだろう。
どうすればいい。落ち着けオレ。
とてもじゃないが落ち着けないオレを引いて、エンヴィーは奥へ奥へと進む。やがて沼の上を木の枝や葉が覆う暗い洞窟のような場所が見えてきた。
まさか、あの中が自宅ですなんて言わねぇよな。オレは戦慄した。冗談じゃねぇ。あんな穴蔵みたいな場所はごめんだ。
しかしやはり目的地はそこらしい。エンヴィーはその穴蔵にすいすい入っていった。引っ張られて葉っぱも入っていく。当然上に乗ってるオレも。
絶対嫌だ。オレは両手をあげて木の枝を掴んだ。腕の力で、えいやっと逆上がりする。チューリップ登りで毎日鍛えた腕力をなめないでもらいたい。
オレがいなくなった葉っぱは、気づかないエンヴィーによってそのまま奥へと連れ去られて真っ暗な中に見えなくなった。
エンヴィーがバカでよかった。オレは枝を伝い葉っぱを歩き、どうにか沼地から生還した。



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