小話

□抱きしめてキスして
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鋼のが逃げた。



ため息をつきながらぼんやりと窓を見つめる私のデスクの上には、決済を待つ書類が山になっている。
だが、そんなものがなんの役に立つというのだろう。たかが紙切れよりも、私の人生においては鋼のという存在のほうがはるかに重要なのだ。
「ですが只今現在のこの時点においては鋼のよりも紙切れのほうが准将にとって重要と思われます」
絶対零度の声音で副官が言う。要約すれば、書類を片付けなければおまえの人生を片付けるということだ。
だがいくら脅されても、私は窓から目が離せなかった。ついさっき執務室から飛び出ていった可愛い金色がぴこぴこ尻尾を跳ねさせながら中庭をつっ切って正門へ向かって走って行くのが見えるからだ。
「中尉……私は彼に嫌われたのだろうか」
哀愁漂う横顔を見せて呟く私にわざとらしく大きなため息をついて、中尉はちょっぴりだけ肩を竦めて見せた。そうするだけでずいぶんと可愛らしい仕草に見えるのは、普段が普段だからだろうか。
「余計な世話です」
中尉は時計を見て書類を見て、ペンを持ったままの私の手を見た。さっさとサインしやがれという心の声が聞こえてきそうだ。
「准将の大事な鋼のの気持ちは彼にしかわかりませんが」
中尉はちらりと彼が座っていたソファを見た。
「端から見ていて、多少構いすぎなようにも思えます」
構いすぎ。私が?
そんなことはない。まだまだ足らないくらいなのに、一生懸命我慢しているんだぞこれでも。







あの苛烈な戦いのあとに弟を取り戻した鋼のは、故郷に弟を預けて銀時計を返しに来た。
もう錬金術は使えないのだからそれは構わなかったが、私は彼が私から離れようとしているのが気にいらなかった。目を合わさず要件だけを言う彼を掴まえて、無理矢理に視線を合わせて詰問した。
きみは銀時計と一緒に、私との関係も無かったことにする気だろう。
そう言えば彼はしばし迷って、それから強い瞳で見つめ返してきた。
あんたと付き合っていたことは忘れない。無かったことにはできない。でも、もう無理だろう。あんたはこれから上へ昇っていくはずだし、そうなれば世間は放っておかなくなる。オレみたいな男が恋人だなんて知れたら、いい新聞ネタだ。オレはあんたの足を引っ張る存在にはなりたくない。
彼の言い分はもっともかもしれない。だがそんなことで引っ張られるほど弱くはない。男が恋人でどうだというのだ。そんな話はそこらじゅうに腐るほど転がっているし、私が頂点まで昇り詰めれば誰にもなにも言わせない。結婚もできるようにする。とにかく私には鋼のが必要で、昇り詰めるための気力とかその他いろんなものを補充できるのは鋼のだけだ。
私の必死な説得に、鋼のは頷いた。オレでいいのかと聞く彼の声は小さくて、私の耳が彼の声限定で高性能でなければ聞き逃すところだった。
きみがいい。きみでなくてはダメだ。
そう言って抱きしめて、一緒に暮らそうと私の家の鍵を渡した。

あのとき、私は自分の未来が薔薇色に輝くのを見たと思ったのに。










それから1年。
たかが1年だ。
倦怠期に陥るには、まだ早くないか?









「倦怠期ではなく、単に准将が鬱陶しいだけかと思いますが。彼ももう子供じゃないですし、もう少し懐を広く持たれてはいかがですか」
要約すると、ウザがられてんだよいい加減わかれよそれくらい。と言いたいのだろう。
冷たい中尉の声にますますやる気をなくして、私はとうとうペンをデスクに放り投げた。
「職務放棄する」
「は?」
「すべての仕事を放棄する。鋼のが戻ってきて私にぎゅーと抱きついてちゅーてしてくれるまで、もうなんにもやらない」
「………………」
中尉の顔はあからさまに呆れている。
だが知らん。誰がなんと言おうと私はもう知らん。

俯せにデスクに倒れ込んだ私をしばらく眺めてから、仕方ないという顔で中尉は部屋を出て行った。無駄だよ中尉。彼はさっき司令部から出て行ってしまった。探しても見つからないに決まってる。きっと家にも帰ってない。だって彼は私を嫌いになってしまったのだから。

駅に行っていたらどうしよう。
リゼンブールならまだいいが、もしもっと遠くとかに行く汽車に乗ってしまっていたら。
確か今、アルフォンスはシンにいるんだったか。まさかそこへ行くつもりじゃないだろうな。あの国には糸目の皇子がいるはずだ。奴は彼を狙っていた。

考えれば考えるほど、彼が本当に汽車に乗ってどこかへ行ってしまいそうな気がする。ああどうしよう。彼がいなくなったら生きていけない。

とか考えたら涙が浮かんできた。
もう30過ぎたいい大人が、想像だけで泣くなんてみっともないにも程がある。
だが、今ここには誰もいない。鋼のもいないし、中尉もしばらく戻らないだろう。
いいや、泣いちゃえ。
そう思ったと同時に一気に涙が溢れて、私は腕で顔を囲った。



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