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014.「天体」
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止まっていた息を継ぐ。

快楽の尾を手放してゆっくりと瞼を持ち上げると、隣人は未だに忙しなく動いていて、彼の肩越しに見える天井が規則的に揺れていた。
ふと目をやると眼前には、泣きだしそうと言ってもおかしくない程に歪んだ、どうしようもないくらい余裕の無い隣人の表情。

先に到達した方からすれば、この先の行為など面倒でしかない。
けれど縋りつくように穿ってくる隣人のその行動を静止する事は逆に面倒で、どうせ限界も近いのだろうからこのまま放っておこう、と思い直した。

隣人の、ギュっと閉じられた瞼の横を通って、汗が頬を流れていく。それが顎を伝って落ちてくる光景がスローモーションで目に飛び込んできた。
何の意味も無くそれを目で追う。
唇の辺りに塩辛い水滴が当たったのと同時に、小さく呻きながら隣人が上体を一瞬だけ仰け反らせた。

直後に背を丸め、律動が速くなる。


「…、す、…んませんッ…」


余裕の無い声でそう謝罪し、けれど規則的な動作を繰り返すその姿は恐らく、第三者的に言うなら動物のようだったろう。

この男は何故いつも謝るのだろう、とキレネンコは考えた。
もしかしたら意味なんて最初からなくて、これはこの男の口癖なのかもしれない、と思った。

穿たれた楔が熱を持つのが分かる。腰を抱えられ、下肢を持ち上げられながら小刻みに揺さぶられ、肉と肉がぶつかり合う音が生々しく響く。
キレネンコは目の前にあるその顔を眺めた。
低く唸るその声を聞いて、この隣人もやはり男なのだな、と思う。
だから何、というわけではない。これは行為の上で弾き出された結論なのであって、興味がどうの、という話ではない。


「…ッ、ネンコさんっ…、」


ぶるり、と震えた隣人は小さくそう囁いてから、それまで頑なに閉じていた瞳を開いた。

欲望にまみれていてもおかしくないこの瞬間、何故だかそこに嵌めこまれている茶色い眼球はただ静かな鼓動を伴って、こちらを見つめている。

その中にふたつ、赤い光の粒を見たような気がしてキレネンコは目をこらした。けれど次の瞬間には隣人が目を閉じてしまったので、それを確かめる事が出来ないまま。



「…好きだよ、」



隣人が嗚咽のように呟く。

欲望が引き抜かれるのと、腹の上に熱い液体が迸るのはほぼ同時だった。臍の辺りに溜まったそれは、動いた拍子に脇腹を伝ってシーツへ流れおちていく。感覚だけでそれを感じながら、急速に欲望の余韻を失っていく隣人の顔を眺め。


驚いた。


頭上にある顔の、その茶色い目からぽつり、ぽつりと。不規則に落ちてくる、星。

反射的に目を閉じてしまい、その直後に瞼の上へ温かい感触が触れ、やっとそれが何なのか分かった。



涙だ。



つい先ほど、隣人の目の中に見つけた星が落ちてきたのかと、半ば本気でそう思った自分に呆れた。目の中になんて星が存在しているわけもない。しかしそれならば、さっき見たあのふたつの光はなんだったのだろう。
それを確かめようと目を開きかけた瞬間、突然ベッドと背中の隙間へ無理矢理に隣人の手がねじ込まれた。

そのまま半分持ち上げられるようにして抱きすくめられる。






「すんません、こうじゃなくて…ほんとは、こういうんじゃ、なくって…、」






耳のすぐ傍で隣人の声が聞こえた。何が「こういうんじゃない」のかはわからない。抱きすくめられているので顔は見えず、けれどどうやらその声音を聞く限り、先程のまま泣いているようだった。
この状況で何故泣くのか、理由があるとしてそれが何なのか、確かめようもなければ、興味もない。ただ、その体躯に似合わず、抱きしめてくる力は強く。けれど潰れて死んでしまう、と思うほどでもなく。

無意識で、自分の腕に潜む「力」を想う。

力の加減など必要なのかそうでないのか、自分には良く分からなかった。分かるのは、今この腕を隣人の背中に回し、もしも力の限り抱きしめたとしたら。



言葉のあやではなく、この男は死ぬ、という事だけ。



一瞬だけ、試してみようかという気持ちになった。腕をそっと持ち上げてみる。

全力で抱きしめたら。今この男が自分にしているように。腕を回して、その体を包んで、持てる全ての力でしがみついてみたら。

結果は先ほど頭に浮かんだ物と同じように、「きっと滅茶苦茶に潰れて死ぬだろう」という簡単な結論だった。


隣人の背中に回そうと持ち上げた手を、そのままゆっくりと下ろす。


自分を抱きしめてくる体温を守りたかったわけではない。殺したくないと明確に思ったわけでもない。今思えば当たり前で簡単な事だけれど、自分はこれまで、「選ぶ」事が出来るという事実を知らなかったのだ。

そうする事が必要であろうと、そう出来る状況であろうと。
「殺さない」という選択。

必要なだけ、必要な時に奪ってきたたくさんの命。それが何の為であるとか、その先どんなふうに影響を及ぼすとか、そんな事は自分にとってどうでも良い事だった。自分の命と片割れの命が続いて行く為に、それ以外の理由などまるで必要が無かった。

ただ、知ってしまった。理解してしまった。

誰かが選んだ選択肢によって訪れる「死」は、少なからずどこかに影響し、違う「死」を呼ぶという事。ふたりで何度も選び取ってきた「他人の死」は、結果的に片割れの命を奪って行ったのだ。
それならば自分も同じように、命を奪われるべき存在なのだろう。
それが運命だというのなら、自分はそれで構わない。きっと片割れも同じ事を言うだろうし、自分だけがそれから逃れられるとは思っていない。奪う事が罪かどうか、という次元ではなく、いつ自分が「奪われる側」になってもおかしくはないのだ、という事を理解してしまったのだ。


生まれてきた時から死んでいくまで、離れる可能性など微塵も考えなかった、片割れが。



粉々に、散ってしまったあの日に。












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