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047.「キズナ」
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プラシャーイチェ、と書かれた部分に、うっすらとした別の文字が見える。書きなおした跡だろうか、と思って目を凝らすけれど、どうにも読み取る事は出来ない。

書き間違えた跡だろう、と思いつつもまるで、導かれるように。
そっと裏返したそこには、衝動的に書き殴ったような乱雑な文字で。
たった一言。











俺も好きだった













あの頃の記憶が細切れになって脳内に映し出された。

長い間、なるべく思い出さないようにと努めてきた記憶が、零れおちるようにして流れ出して来る。同時に、封印していたはずの自分の気持ちがどうしようもない程に溢れて。

一度も言葉にした事などない、その想いが。
抱き寄せて唇に触れたあの一瞬で、彼に。


脇に挟んでいたタバコのカートンが床に落ちる。
せり上がる感情を、止められない。









「…、ボリス…」









あれから一度だって、この名前を口に出した事は無かった。

同僚と彼の話をする時でさえ、「アイツ」とか「狙撃の鬼」なんてふざけた表現をして、そんなくだらない事で自分のスタンスを守ろうとしていた。

自分の声で聞く彼の名前は、あの時のままで。どうにもならない感情を滲ませていて。直視できない程に、色鮮やかで。

生きていく上で、「もしも」なんて無い事は、この歳になれば理解せざるを得ない。だからそんな事を考える自分がどれだけ愚かな妄想に取り憑かれているか、良く分かっている。
分かっているけれど、それでも。



もしもあの時。

好きだ、と。
言葉で告げていたら。

自分達は。



この手紙の文章を紡いだ彼の思考を想って、この便箋に触れた彼の指を想って。封をする寸前に思いとどまり、便箋の裏に短い一行を書き殴ったのであろう、彼の感情を想って。

ああ、これで本当に「記憶」になるのだ、と。いつでも手繰り寄せる事が許される、「思い出」になるのだ、と。
そう思うと、胸が抉られるような痛みがあるのと同時に、溢れるような温かさがあった。

途切れていた糸を繋ぎ、過去にする、というそれは、彼の決意であり覚悟だ。

そして何よりも。

不器用な彼の、自分へ対する最上級の優しさだから。




「…お前らしいよ、」




苦笑いにも似た笑みが漏れ、自分の顔が歪むのが分かった。必死で歯を食いしばっているのに、ともすればその隙間から彼の名前が零れてしまいそうになる。



だから目一杯の力で。
手紙を胸に押し付けて。






ただ、泣いた。














あの頃の俺達は

同じ物を見て
同じ道を歩いて
下らない事で喧嘩をして
馬鹿らしい事で笑って







ボリス


俺も誇りに
思ってるよ

きっともう


お前以上の奴には
出会わない





なぁ
これで最後だから

言ってもいいかな





俺はさ

お前の事が ずっと










「…好き、だったよ…」





かろうじて声になった想いは、数え切れない程に訪れた眠れない夜や、叫びだしてしまいたい程に苦しい時間を越えて、今もまだここに存在している、と思った。

けれどそれ以上に、ただひとつを心の底から願っている自分も居る。

有り得ない話だけれど、もしあの頃の自分が今の彼と出会う、そんな日があったとしたら。
自分の願った結末ではない、切ない未来を目の前にしても。

笑って、こう言って欲しい。









結婚おめでとう






どうか
いつの日も

お前が
幸福で在りますように

















2010.07.29
プラシャーイチェ(Прощайте)→「さようなら」の意。しばらく会えない場合(らしい)。

彼らはこの何年後かに再び出会って、自分達の妻や子供の話をしながら酒でも酌み交わせばいい、と思う。

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