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042.「○○さま」
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毎日この店の前を、同じ時間に通りますね。

いつも綺麗な花束を抱えているからとても気になっていて。
いつか、話しかけたいと思っていたのです。
朝番の時は必ず店の前の掃除をするのですが、おれがあなたの存在に気づいたのはその時で。
まだ夜が明けたばかりの朝5時過ぎに必ず、この道を通って行きますね。

毎日、でしょうか。

おれが店に出るのは毎日ではないので、それは分からないけど。


あなたのおかげで、眠い朝番が辛くなくなりました。
今は、あなたの姿を見られる事が一日の中でとても、幸福な一瞬です。

ありがとう。



今度ぜひ、お店に寄ってください。
あなたに似合う花があるのです。


カトレアという花です…








「プーチン、今日は随分楽しそうだな」
「わっ!わわわわ!」


店主が突然覗きこんできたので、プーチンは慌てて手元を隠した。店主の老人は不思議そうな顔をして笑って、それからぽってりと出た腹をさすりながらこう言った。

「何だ何だ、恋文か?」
「ちっ違いますよ、変な事言わないでください」

店主は豪快に笑って、店に出す花の選定にとりかかる。
紙とペンがそこにあったからなんとなく、という理由で書き始めたその手紙をそっと眺めながら、プーチンは一人赤面した。

小さな花屋でありながら、多くの人が訪れるこの店はおそらく、店主の人柄による部分が大きい。もちろん置いているたくさんの花々が美しいおかげではあるのだろうが、「花」という一種独特の売り物に関しては何故だか、買う人間もどこか厳かな気持ちになるのだろう。

ほとんど一文無しの状態でこの町へ来たプーチンにとって、「ここで働けばいい」と声をかけてくれたこの店主は神様みたいな存在だ。

穏やかで優しく、緩やかな時間が流れているこの場所。

恩返しをしたいと思いながらも、自分に何が出来るのかという事実にぶつかると俯くしかなくて。
一生懸命働く、というありきたりな事しか取り柄の無い自分に、悲しくなりはするものの。
あまりにも思いつめれば逆に、店主に心配をかけてしまう。

人の為に心を痛める事が出来る、心優しいこの老人の悲しい顔は見たくなかった。

ふと、思い立つ。

古くからこの町に住んでいるこの老人ならば、もしかしたら。

視線を向けると、店主は「さっさと朝飯平らげちまえ、今日も忙しくなるぞ」と穏やかに笑って、木の床を踏み鳴らしながら部屋を出て行こうとする。
その背中を慌てて呼び止め、プーチンは尋ねてみた。


「あの、…毎日、花束を抱えてこの店の前を通る人、知ってますか」


渡せるかどうかもわからないのに、衝動的に書いた手紙。
名前も知らない、彼。

顔にある、大きな裂傷。
造り物じみた表情。
触れたら壊れてしまいそうな、悲しい空気を纏っているその男。

いつもは真っ直ぐに前だけを見ているのに、何故だか昨日は。

目が、合った。

飛び上がりそうなほど驚いたものの、それと同じレベルでただ、嬉しくて。
彼の視界の中に自分が居たのだと思うと、たまらなく幸福で。
だから何だか、自分の中に芽生えた気持ちが誤魔化せなくて。

もっと彼の事を、知りたくて。


「花束、」


店主は呟くようにそう言った。
話が唐突すぎたろうか、と思いつつも、はやる心を抑えきれずについ、早口になる。

「あー、毎日かどうかはわかんないんす、おれが店に出てる時は必ず通るってだけなんすけど…朝5時くらいに、店の前の通りを」
「…、」
「赤い髪の男の人で、なんていうか…すごく、綺麗な人で」

少しだけ困ったような顔をして、店主は言った。


「…キレネンコだな」
「キレネンコ…さん、」


店主は窓の外へ目をやって、遠くを見るような眼差しでしばらくの間黙った。

重く、沈み込むような沈黙。

想像しなかったその空気に、聞き返せない物を感じてプーチンも黙る。
しばらくしてから、店主はそっと言葉を紡いだ。

「…キレネンコは、店の前の通りを東へ行ったところに住んでいるらしい」
「…そう…なんすか、」

らしい、というからには知り合いではないようだ、という結論がプーチンの頭の中で弾き出された。けれどそれならば何故、この店主は彼の名前を知っているのだろうか。
疑問には思っても、やはり聞き返す事が出来ない。

再び訪れた沈黙の中に、時計が時間を刻むカチカチという優しい音だけが響く。時刻は午前4時半を指していた。
そろそろ店前の掃除を始めなければ、と思う。

この話はもうやめよう、と考えた瞬間に、店主はその穏やかな顔を少し曇らせて、ぽつりと言った。


「弟のな、…墓参りらしい」
「…え、」
「毎日花束を持ってるだろ。教会に通っているらしい、と誰かに聞いた事がある。…あの傷は目立つからな、人目につかない早朝を選んでいるんだろう」
「…、」


その傷は一体、なんて問いかける事が出来るわけがなかった。
そもそも、店主がそれを知っているとも思えなかった。

ただひとつ、思ったことは。

やはり手紙を渡そう、という事だけ。

さぁ、そろそろ仕入の奴らが戻るから俺は先に店へ出てるぞ、と言って背中を向けた店主に、プーチンは慌てて声をかける。

あとひとつだけ、知りたい事があった。

「あの、カトレアの…!」
「ん?」

「…カトレアの花言葉は、何て言うんですか」

















キレネンコ さま


突然でごめんなさい。

気持ち悪かったらこんな手紙、捨ててしまって構いません。
でも、もしもちょっとだけ時間がもらえるなら、たった一度でもいいから読んでやってください。



おれはプーチンと言います。
あなたの名前は、キレネンコさんと言うのですね。
花屋の店主さんから教えてもらいました。
朝早く、店の前を通って行くあなたを初めて見た時から、おれはあなたの事が気になって仕方がないのです。
あなたがこの手紙を読んでくれるかどうかは分からないので、伝えたい事だけを書きます。



あなたと話をしてみたいです。
もしよかったら今度、おれが働くあの花屋に寄ってください。



あなたに似合う花があるのです。
カトレアという花です。



花言葉は
『美しい人』




あなたに、受け取って欲しい。










プーチンは店主の去った部屋でその手紙を書き殴って、乱雑に折ってからポケットにねじ込んだ。
きっと読み返したら破り捨ててしまいたくなるほどに、恥ずかしい事を書いているから。

何と言ってこの手紙を渡そうか、そう思ってからすぐ、余計な心配はしないでおこう、と頭を振って。
プーチンは席を立ち、ポケットに入れた手紙にそっと触れてから、掃除用具がしまってある物置へ向かって歩き出し、それから気になって振り返った。






時計の針。
午前4時48分。




もうすぐ彼が、この店の前を通る。
たったそれだけの事で。








胸が、ドキドキした。























2010.07.13
完全に趣味に走りまくっているアレですが赤緑赤と言い張る岡枝← パラレルワールド炸裂ですなー!しかしウサビッチである必要性を感じないという(それを言っちゃあ…) いやー新鮮で非常に楽しいですぜ…!
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