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001.「ほおづえついて」
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曇り空が広がる昼下がり。
珍しくボリスがこちらの部屋へやってきた。
とくに「おいで」とも言っていないし、用事があるふうでもなかったのに、だ。

コプチェフは、扉を開けた時の姿勢のまましばらく固まった。しかし眉間に皺を寄せているボリスの顔を見て、慌てて「どうしたの?」と尋ねる。すぐに「何が」と聞き返してきた声は、理不尽なほどに不機嫌。
返答に詰まっていると彼はズカズカと上がり込み、脇を通りぬけてリビングへ進み、そのまま食卓テーブルに備え付けられた椅子に座る。
宿舎内の部屋にある家具は全室同じ物なので、その椅子に座る彼の姿を見るのは初めてではないけれど。むしろ見慣れてさえいるけれど。
それが自分の部屋となるとやはり、いつもとは違う違和感があった。

不意にボリスが口を開く。


「コプチェフ、コーヒー」


例えば、彼の気分が沈みこむような「何か」があったのだとしても、こうやって分かりやすい態度をとるとは思えない。だから他に理由があるのだろうけれど、それを問いただす事が必要なのかどうか、判断に困った。


「…りょーかい、」


兎にも角にも、彼が自分からこの部屋を訪ねてくれた事は嬉しい。
コプチェフはいつも通りの返事をして、横目でボリスの横顔を眺めてから戸棚に手をかけた。ほとんど彼専用になっている上等な珈琲豆の缶を取り出し、蓋をあけようとした所で、やはり気になって。

彼の方へ視線を戻すと、当のボリスは頬づえをついて窓の外を眺めていた。


外は低く垂れこめるような、どす黒い曇り空。
今にも雨が降りだしそう。


それをぼんやりと眺めている彼の眼差しは、どこか憂鬱そうな、それでいて悲しそうな。見ようによっては寂しそうな。


「…ボリス」
「…ん、」


思わず声をかけると、小さく返事をした彼は頬づえをついたままゆっくりとこちらを向いた。アーモンド型のグレーが、ゆるやかに揺れている。

どうしてそんな顔してるの、と喉まで言葉がせり上がったけれど、問いかけられる事を拒否されているように感じて黙った。
言葉を吐く事で、彼が紡ぐ「無音」をかき消してしまう気がして。

コプチェフは言葉を探す事を諦めて、そっとボリスに近づいた。
彼は一瞬、敵の気配を察知した野良猫みたいな顔をして、それから頬づえをついたまま、少しだけ顔を持ち上げる。

手を伸ばしてその頬に触れた。短距離とはいえ外を歩いたからなのか、微かに冷たい頬だった。唇を開く気配を見せない彼から、今何か声を求めるのは違う、と感じる。

だから、やっぱりここはいつも通りに。
けれど何かに疲弊していているようだから、今日のコーヒーは。


「…甘めに淹れようか、」
「…ん」


たまには自分の分も淹れてみよう、とメジャースプーンで2杯、珈琲豆をペーパーフィルターへ落とす。湯の温度は83度くらいだったよな、でもどの辺りでケトルの火を止めたらいいかはさすがにわかんないな、と頭の隅で独り言を呟きながら、ケトルの湯気を眺める。
しん、とした室内の気温は温く、ケトルが蒸気を吐きだす音だけが規則的に響いていて。

そこに漂う、心地良い沈黙。


不意にボリスが小さく声を漏らした。



「…あ、」



振り返ると、彼は未だ頬づえをついたまま。
その半開きになった唇に一瞬だけ良からぬ事を想像したけれど、コプチェフはボリスの目線を追って窓の外を見た。


雨だ。


ぽつりぽつりと、窓ガラスに当たる水滴。
少しずつ増えていくその数は、次第に数えられない程になって。窓を濡らし、地面を濡らし、空気を濡らし。

この室内にある空気まで。


「…降って来たね」


コプチェフが呟くと、ボリスはやっぱり小さな声で「ん、」とだけ答えた。

朝見た天気予報では早朝から雨だ、と言っていたのに。昼過ぎになっても降り出さないものだから、てっきり外れたのかと思っていた。
コプチェフは窓からケトルへ戻そうとした視界の中に、ふと。何か見慣れない物を捕らえた気がして、視線を戻した。
通過地点に居るボリス。
彼の、頬づえをついている左手ではなく、その影になっている右手の人差し指に。

絆創膏。


「…ボリス、指」


何の気なしに尋ねると、彼は窓の外を眺めたまま。やっぱりどこか憂鬱そうに、それでいて悲しそうに、見ようによっては寂しそうに。複雑な表情を浮かべた顔でぽつりと言った。

「…お前が俺の部屋に持ち込んだカップ、割っちまった」

カップ?と聞き返したくなるほどに記憶の中で曖昧なそれは、掘り返してみれば確かに、彼とこういう関係になってすぐあの部屋へ持ち込んだんだ、という事実が浮かび上がってきた。
ボリスの部屋には必要最低限な物しかなく、もちろん皿やカップも最低限の数しかなかったから。人を招く事を好まない彼だから、当然と言えば当然だけれど。
だから「とりあえず」のつもりで自分の部屋から持ち込んだカップ。
どこで手に入れた物だったかすら、思い出せないような。模様の無い真っ白な、どこにでもある普通のカップ。

「傷、大丈夫?」
「んー」
「…カップ、割っちゃったからそんな顔してんの?」
「んー」
「…ボリス、」
「んー」

返事の調子から言って、多分聞いてないんだろうな、とコプチェフは思い、そのまま視線をケトルへ移そうとした瞬間、ボリスは妙に深刻な口調で言った。


「形あるモンは壊れる、っての。…本当なんだな」


いつもなら、影のあるような歯切れの悪い言い方をしない彼が、そんなふうに。どちらかと言うと「壊れたらまた買やぁいいだろうが」なんて言う性格のくせに。
たまにこうやって。









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