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□024.「新しい靴」
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自由、という物を奪われているはずの囚人である彼に、何故そういった待遇が与えられているのか、入所したての頃は本当に不思議でたまらなかった。
どれだけ考えてみても分かる事は少ない。
彼が「特別」だという事と、基本的に彼が欲しがった物は与えられるのだ、というそのふたつだけ。
そして彼が欲しがる物も、ふたつしかない。
「食事の変更」と、「新作のスニーカー」だ。
彼が「特別」で、欲しい物が与えられるというのなら、例えばもっと高価な物だったり便利な物だったり、生活の質を良くするような物を求めてもおかしくないはずだ、と思う。
詳しくは知らないが、マフィアのボスだったという話を耳にした。
それなりの生活をしてきたのだろう彼が、ふたつの物しか求めない、というのはかなり不思議な事に思える。
未だにそれが、何故なのかは分からない。
確かこの監獄へ着いてすぐ、入る部屋を決められる時に看守達が話していた「元マフィアのボス」の話。
それを聞いた時は恐ろしさのあまり気絶しそうになったけれど、今では違う。
…今では。
傍を、離れたくない程に。
隣のベッドの上で、熱心にスニーカーを眺めているキレネンコを見つめて居ると、何だかとても不思議な気持ちになった。
午後過ぎ、いつもの看守がやってきて、無言のまま扉の下部についている給仕用の窓からスニーカーを押しこんできた。まだタグが付いたままのそれはもちろん、新品。
ゆっくりとベッドから立ち上がったキレネンコは、そのスニーカーを手にとってしげしげと眺め。
左に傾け、右に傾け。
裏返したり、中を覗きこんだり。
少し遠ざけて全体を眺めたり、内側についているタグへ熱心に目を通したり。
もう夕方だというのに、もうずっとそのスニーカーから目を離さない。
本当に好きなんだな、と。
そう思うと何故だか彼の心の一部に触れたような嬉しさがあって、アウトソールを磨き始めた彼に思わず、声をかけた。
「ネンコさんは本当に、スニーカー好きなんすね」
当然、答えは返らないと思っていたのだけれど。予想外な事に、彼はこちらを振り返ってじっと、見つめてきた。声をかけておいてなんだけれど、考えていなかった行動に出た彼に少し、戸惑う。
「…あ、…ごめんなさい、お邪魔でした…かね、」
キレネンコが長い間こちらをじっと見ている事に、何だか違和感を感じた。特別そんなふうに見つめられるほど、自分はおかしな事を言ったのだろうか。
プーチンは戸惑い、それを問いかけようと口を開きかけた瞬間、彼の目は再びスニーカーに戻されてしまった。投げかける事が出来なかった言葉を飲み込んで、大事そうに新作を抱える彼を眺める。
投げかけた言葉に、返事をもらえない事が当たり前になって。
それでも構わない、と思うようになって。
けれどそれがただの強がりだと気付いて。
自分が監獄に入れられる事も、死刑囚と同じ囚人房へ入れられる事も、全く予想していなかったけれど。それまでの生活が霞んでしまうほどに、今この生活は鮮やか過ぎる。眩しくて、目を開けられないほど。
いずれ自分はここを出なければならない。けれど彼は死刑囚であり、もうここから二度と出る事は無いだろう。
そう思うと恐怖に似た苦しさが、胸の内側をジリジリと焼いてくる。
「…邪魔だったら殺してる」
不意に投げかけられた言葉は唐突で、すぐには反応出来なかった。ここにはふたりしか居ないのだから、「他の誰か」であるわけがない。
しばらく考えてから、それは遠まわしに「邪魔ではない」と言っているのだと気付いて、場違いな喜びが沸き上がる。恐らく彼はただ自分の中の事実を告げているだけで、「必要だ」と言ってくれているわけではないのだ。
ないのだ、けれど。
「…おれも、スニーカーになれたらいいのに、そしたら…、」
ずっと一緒に居られる、と。続きは言えなかった。
ぽつりと零した言葉に彼は反応し、こちらを向いた。珍しく驚いたような顔をしている彼を見ると、自分がいかにバカバカしい事を言ったのか思い知る。瞬時に恥ずかしくなって、目を逸らしながら言い訳した。
「あ、いや、すんません、言ってみただけっす…」
非現実的にもほどがある。嫉妬というよりは羨望に近かった。物に対してそんな感情を持つなんて、どうかしている。自覚はあったけれど、思わず零れた言葉が本心だという事に気付いて居る分、尚更いたたまれない気持になった。
おれ、ほんと馬鹿ですんません、と続けようとした所で、彼はぽつりと言った。
「お前は人間だろう」
小さく「はい、」と答えると、そこで終わると思っていた彼の言葉は意外な事に、まだ続いた。顔を俯けたままそれを聞く。
「…出会う場所は変わらない」
「…、え?」
意味が分からずに顔を上げると、彼は靴を磨きながら何でもない事のように言った。
「お前が靴だったとしても、出会う場所は変わらない」
出会う場所。
監獄。
何故?
頭の中で色々な可能性を考える。
全て自分に都合の良い考え方だな、と思った。けれど悪い方向へ考える事のほうが難しいと感じたその言葉に、どうしても期待してしまって。
だから自分が傷つかない程度に、問い掛けてみる。
「…おれがスニーカーに生まれてたら、どんな色をしてましたかね」
ふと、手を止めて彼は顔を上げた。
燃えるような赤い目がこちらを見つめている。いつもの無表情ではあったけれど、考え込んでいるというよりは伝えるかどうかを迷っている、というように見えたのは自分の欲目だろうか。
少しの間を置いて、彼は真っ直ぐな目をしたまま答えた。
「…珍しい色」
その返答に、思わず笑ってしまった。
少し不機嫌な顔をした彼を見て、慌てて笑いを引っ込める。
良い意味なのか悪い意味なのかはわからない。けれど今の自分にとって、それはとても嬉しい言葉だった。もしかしたら全て、自分の思いこみかもしれないけれど。願いでしか無いのかもしれないけれど。
自分が珍しい色のスニーカーなら、彼は。
この監獄で、いつものように雑誌を広げて。
目にとまったその「珍しい色」を。
「…欲しいと、思ってくれますかね」
冗談みたいな質問だと思う。そもそも、自分が靴だったら、なんて発想がすでに子供じみている。けれどやはり、スニーカーを何より大事に思っているであろう彼は、「珍しい色」をみつければ、きっと。
…だから、さっき彼はああやって言ったのだ。
「…出会う場所は変わらないと言ったろう」
少し面倒そうに、けれどそう答えた彼の言葉は、この上ない幸福を自分へ運んできた。
彼にとって自分の存在は「珍しい何か」なのだろう。「特別な何か」ではないけれど、周りの色に埋もれてしまう他の物よりは少し、彼に近いのかもしれない、と思えた。
新しい靴。
いつもより多い口数。
熱心な眼差し。
今日の彼は機嫌が良い。
キレネンコは再びスニーカーへ視線を移して、熱心に磨き始める。その光景を見つめながら、プーチンは心の奥で思っていた。
物ではなく
命ある者として
出会えた事
必然よりも小さく
偶然よりも大きい
『喜び』ではなくて
これは
何物にも変え難い
至上の『幸福』
2010.05.16
「新しい靴」て…笑 お題の時点で赤緑赤って決定してた岡枝!しかし何故岡枝の書くコイツらはこんなにまわりくどいんだろうか