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002.「秘密」
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スエードアッパーに、キャンパス地の二本のライン。
PRO-kedsの顔であるROYAL PLUSの新色は、飲みごろになった赤ワインのような、少し黒味がかったくすんだ赤。

申し分ない。
気分が良い。



キレネンコは雑誌に穴が開きそうなほどそれを見つめ、すぐにでもアイツに購入させよう、と思い立った。理由はよくわからないが、スニーカーの購入については妙に気前が良いあの看守が、頭の中で何を考えているのかは自分の知った事ではない。

想像するに、スニーカーについては上からの許可が下りているのだろう。

その理由もやはりわからないが、欲しい物が手に入るという事実さえ有れば良いキレネンコは、そんな事には興味が無かった。

雑誌を片手に、寝そべっていたベッドから起き上がる。

ふと視線をやった隣のベッドには、隣人の姿が無かった。どうでも良い事ではあるが、多少気にはなる。この狭い空間で身を隠せる場所などほとんど、ゼロに近いからだ。
案の定、その姿はすぐに見つかった。

扉の左横。部屋の隅を向いてこちらに背を向ける、隣人。

キレネンコはしばらくその背中を見つめていたが、隣人がピクリとも動かないので興味を失い、看守を呼びだす為に扉へ近づくと、強く叩く為に拳を振り上げた。

その瞬間。


「ネンコさん待って…!」


隣人にしては珍しく、大きな声だった。顔だけでこちらを振り返っている隣人は、自分の声の大きさに驚いたのだろう、少し頬を紅潮させながら何度か口を開閉した。しかし言葉は出てこない。

特に腹も立たなかったので、隣人の次の言葉を待った。
やたらと必死な形相をしている。


「あの……、看守さんを呼ぶならあと10分…いえ、5分待ってもらえませんかね…」


今度はやたらと小さな声だった。
特別、今すぐに看守を呼ばなければならないわけではないものの、そんなに必死な顔でそれを先延ばしにする理由がどこにあるのだろう、と思う。隣人の顔をじっと見つめていると、彼は唐突に言った。


「ネンコさんは動物、嫌いですか?」


意味がわからない、と思う。

隣人は相変わらず顔だけでこちらを向いているけれど、どうもそこから動く気は無いようだった。部屋の隅が良いというならこちらは全く構わないけれど、その事と「動物」がどんな関係性にあるのか分からない。

「…何故、」

端的に聞き返すと、隣人は少し困ったような顔をして。
それからゆっくりと体を退けた。部屋の隅が見えるようになるまで体を横向きにした彼の、その足元には。


灰色の小さな体。
長い尾。
キョロリとした黒い目。
大きな耳。
髭。



1匹のネズミだった。



隣人がパンのクズを与えたらしく、忙しない動きでそれを口にしている。

「…ベッドの影になってるから気付かなかったんすけど、穴が開いてて…こいつこの間からこの部屋に結構来てるんす。…ネンコさんは…ネズミ、嫌いすか?
「…、」
「あ、いえ、ネンコさんがもし嫌いだったら困るから、秘密にしてたんすけど…でもネズミだって良く見ると可愛いし…」
「…」
「す、すみません、やっぱり言うべきでした。看守さんにも知らせないとまずいすよね…監獄なのに壁に穴開いてるのはまずいすもんね、…それに穴が見つかった時に脱獄しようとしてる、なんて思われたら困るし…おれだけじゃなくてネンコさんにまで、…」

一人で慌ただしく言葉を紡ぐ隣人を見て、想像力の豊かな奴だな、と有る意味で関心した。

脱獄、なんて事を考えた事などない。その必要を感じないし、したいとも思わない。自分には帰る場所などないし、ここが気に入っているわけではないけれど、そこまで気に入らないわけでもない。


「で、でもあとちょっとだけ…ダメですかね?せめてコイツがこれ、食べ終わるまで…」


鼻をヒクつかせているネズミが、前足でパンを掴んでいる。隣人はその姿を見降ろして、不安そうだったその表情を緩めた。そしてまた思い出したようにこちらを振り返り、縋るような眼をして言う。


「あと、5分だけ」


何故だかネズミを守るように背中で庇いながら、隣人は頭を下げた。

おかしな奴だ、と思う。

たかがネズミの1匹や2匹、別にどうという事はない。この部屋がネズミの巣窟になるなら話は別だが、今まで気付かなかったのだから大した問題ではないように思えた。



キレネンコはふと、手に持っている雑誌を思い出して目線を下げる。

スエードアッパーに、キャンパス地の二本のライン。
飲みごろになった赤ワインのような、少し黒味がかったくすんだ赤。

やはり、気分は良い。

限定生産ではないのだし、必ず手には入る。何も焦る事は無いのだ。
もうしばらくの間この雑誌を眺めながら、手に持った時の重みや感触を想像するのも悪くない。



誰にでも、理由などなく傍に置いておきたい物というのが存在するのだろう。それが生き物であろうが、物であろうが。そこに伴う感覚は、そう違うとは思えない。


今の隣人にとっては、それが「アレ」なのだろう。





「…済んだら言え」





ゆっくりと踵を返し、自分のベッドへ戻りながら言葉を投げると、後方から驚いたように息を吸い込む音がして。

勢いよく、呼び止められる。

「ネンコさん!」

うるさい、と思いながらも振りかえると、視線の先に居る隣人は満面の笑みでこう言った。



「きっと、コイツもありがとうって言ってると思います…!ありがとうございます!」



ネズミが「ありがとう」なんて言うわけが無いだろう、と思いながら。けれど隣人のその顔を見ていたら、そんなお伽話のような事があっても特別不思議ではないかもしれない、と思えた。

そういえば隣人の質問に応えていなかった、と思いだしたキレネンコは、隣人の茶色い目をじっと見つめながら、言う。




「動物は嫌いじゃない」




隣人は驚いた顔をして、それから軽やかな声を上げて笑った。

本当におかしそうに、嬉しそうに。
その表情の理由はよくわからなかったけれど、気分は悪く無かった。





「じゃあこれは、おれとネンコさんだけの秘密、ですね」






子供の頃の約束のような言葉を、隣人は笑いながら言って。

感じた事のある感覚がぼんやりと、胸の内を過って不思議に思った。










何故だかそれは。




「欲しい」と思ったスニーカーを手にした時の、あの満たされた感覚に。




とてもよく、似ていた。














2010.05.13
「お題」の良さはこういう所にあると思うなー。死刑囚の居る部屋にネズミが入れるわけないだろう!とは思うけど、まぁ………ねぇ?(何だよ)

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