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□010.「生まれる前」
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「キレ、覚えてる?」
眠っていると思っていた彼が突然起き上ったので、それに驚いたキレネンコは思わず体をビクリと震わせた。
広いベッドの上、自分と同じ体温は寄り添うようにしていつも通り、隣に居るのだけれど。彼の目線はどこか、現実味を帯びない色をしいて。
「…起きてたのか」
「寝てたよ、…でも、」
上体を起こした彼の肩から、さらりと絹のシーツが流れるように落ちていく。現れた肌はカーテンの隙間から洩れる月明かりに照らされながら、薄青く光を反射していて。
綺麗で。
思わず手を伸ばした。
柔らかく微笑んだ彼に、そっとその手を取られる。
優しく指を絡ませて。
繋がれる、手。
「…呼ばれた、ような気がして目が覚めたんだ」
穏やかな声で彼はそう言って笑い、額に口づけてきた。優しい体温はまるで自分の物のようで、境目が感じられない。
自分ではない、自分。
他人ではない、他人。
「キレは生まれる前の事、覚えてる?まだ、マーチの腹に居た頃の事」
「…大体は」
「うん、俺も大体は覚えてんの」
覚えている、と言って良いレベルの話なのかはわからない。記憶というよりは感覚に近いそれを、けれど今でもはっきりと体が記憶している。
「生まれる寸前、だったと思うけど」
彼が緩やかに、もう片方の手で髪を梳いてくる。それが心地よくて、思わず目を閉じた。
まるで子守唄を歌うような声で、彼は続ける。
「…あの時もキレはこうやって、手を伸ばしたよね。…俺はさ、キレが出ていっちゃうのが嫌で。だからこの手をとって、指を絡めて。…そしたらキレは俺に言ったんだ、この指先で」
彼が、繋いだ手にゆるりと力を入れた。体の細胞が覚えているそれは、懐かしいというにはあまりにも鮮明だ。数日前の事のように、その感覚をはっきりと思いだせる。
だからキレネンコは言った。
あの日この指先から、彼に伝えた言葉を。
「生きよう、…一緒に」
彼はそっと微笑んで、繋いだ指先に祈りのような口づけをした。
引き裂かれる日がもし
この先訪れるとしても
初めての記憶と
最後の記憶が
どうか
あなたでありますように
2010.04.30
マーチ=(母親、の意味)